
これまで群衆の構造と同調のメカニズムを考えてきた。では「群れること」と「つながること」は何が違うのか。SNS時代に再現される群衆心理を念頭に置きながら、哲学者レヴィナスの「顔」という概念を手がかりに、他者とのつながりについて問い直してみたい。
SNS時代の「群衆」

ル・ボンが見た群衆は、街頭に集まった人々だった。しかし現代では、群衆が生まれる街頭は必要ない。スマートフォンの画面を通じて、数百万の人間が同じ話題に沸き立ち、同じ感情を共有し、同じ方向に声を上げる。ル・ボンが描いた「感情の伝染」が、デジタル空間で日常的に再現されている。
こうして生まれるのが、いわば「反響室」のような空間だ。自分が発した声が壁に跳ね返り、同じ音ばかりが耳に届くが、反対意見や異なる視点は壁の外にあるため、そもそも聞こえてこない。この現象は「エコーチェンバー」と呼ばれている。近年行われる選挙のたびに、その構造は可視化されつつある。
ある候補者を支持する投稿がSNS上で急速に拡散し、短い動画やキャッチフレーズが感情を増幅させていく。アルゴリズムは利用者の関心に沿った情報を優先的に表示するため、同じような意見に繰り返し触れるうちに、それが「みんなの意見」であるかのような錯覚が生まれる。
選挙が終わると支持した候補者の落選に驚く人々がいるが、興味深いのは有権者の多くがそろって「自分こそ正しい情報に基づいて判断した」と確信していることだ。その理由は、お互いに別の反響室にいたことに気付いておらず、壁が見えていないからだ。聞こえてくる声がどれも似ているからこそ、その声が「社会の代弁者」であるかのように感じられてしまう。
自分の意見は、本当に“主体的”なものか

ここでもル・ボンが挙げた群衆操作の手法(「断言」「反復」「感染」)が、そのまま作動している。短く断定的な言葉がアルゴリズムによって何度も繰り返され、感情の伝染が画面越しに広がっていく。このような拡大は意図的に誰かが仕掛けているとは限らず、SNSという仕組み自体が、群衆を生み出す装置になっているのだ。
さらに根深いのはSNS上の群衆が「自分は流されていない」と感じている点にある。フロムが描いた「機械的画一化」を思い出してほしい。自分の意見だと信じているものが、タイムラインに流れてきた情報を無意識に内面化しただけかもしれない。
テレビの前で受動的に情報を受け取っていた時代と違い、SNSでは能動的に「いいね」を押し、自分の言葉でコメントを書く。その能動性が「自分は主体的に判断している」という錯覚を強化していく。
ル・ボンが生きた時代の群衆は、広場に集まり、やがて解散した。しかしSNSの群衆には終わりがない。画面を閉じても通知が届き、アルゴリズムは連日にわたって、同じ方向の情報を届け続ける。こうした「終わらない群衆」の中で、私たちは大切なものを見失いつつあるのではないか。
それは、画面の向こう側にいるはずの、一人ひとりの人間の存在である。
群衆が常態化した社会の中で、どのように私たちは他者と向き合えばいいのだろうか。この問いに応えるヒントが、20世紀に展開された哲学の中にある。
他者との関わり方の根本的な問い

20世紀前半、二人のユダヤ人哲学者が、他者との関わり方について根本的な問いを投げかけている。
マルティン・ブーバー
ブーバーは1923年の著作『我と汝』の中で、人間が他者と関わる際に二つの根本的な態度があると論じた。
普段の私たちは、無意識のうちに相手を「役割」で見ていることがある。これが一つ目の「我−それ」の関係だ。相手を観察し、分析し、利用する。ここでは他者は目的を果たすための手段であり、対象にすぎない。
それに対して、もう一つが「我−汝」の関係である。相手をかけがえのない存在として受けとめ、全存在をもって向き合うことを意味する。
たとえば友人の悩みを聞いているとき、私たちは相手を分析などしない。ただ目の前にいる「あなた(汝)」として、その存在を受け止め、耳を傾けるはずだ。このとき相手が「汝(あなた)」になることで、私自身も「我(わたし)」になるのである。
エマニュエル・レヴィナス
ブーバーの考えをさらに深めたのが、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスである。
1906年、レヴィナスはリトアニアのユダヤ人家庭に生まれた。第二次世界大戦ではフランス軍に従軍して捕虜となり、収容所生活を送っている。家族の多くはナチスのホロコーストで命を落とした。この経験がレヴィナスの根底に流れている。
他者の「顔」(visage)に出会うことの意味を、レヴィナスは哲学の中心に据えた。ここでいう「顔」とは、目鼻立ちや表情のことだけを示しているのではない。たとえば、電車の中でふと隣の人が泣いているのに気づいたとする。その瞬間、もはや相手は「たまたま隣に座っている誰か」ではなくなる。「何があったのだろう、大丈夫だろうか」と、自然に心が動く。
レヴィナスが「顔」と呼んだのは、こうした経験のことだ。顔に出会うと、人は他者を「どうでもいい存在」として扱えなくなる。相手にも自分と同じように痛みや悲しみがあることが、理屈ではなく直接伝わってくるからだ。こうした感覚の中から、レヴィナスは「相手を傷つけてはならない」という倫理の出発点を見た。
ブーバーが「他者」と向き合う対等な出会いを描いたのに対し、レヴィナスはもう一歩踏み込んでいく。他者は自分が完全に理解できる存在ではない。だからこそ分かったつもりにならず、耳を傾け、応答する責任が生まれるのだ。
現代は「顔」のない空間になっている

レヴィナスの思想からSNSの世界を振り返ると、見えてくるものがある。画面の向こう側にいる相手には、文字通り「顔」がない。アイコンとハンドルネームの向こうにいるのは、顔を持った他者ではなく、意見や立場を示す記号である。
記号に対して人は容易に攻撃的になれる。相手が傷つくかもしれないという感覚が、画面を一枚隔てるだけで薄れていくのだ。レヴィナスの言葉を借りれば、「顔」が見えない場所では、倫理的な呼びかけが届かなくなってしまう。
エコーチェンバーの内側にいるとき、異なる意見の持ち主は「顔」を持った個人ではなく、排除すべき邪魔な存在になる。「あちら側の人間」「何もわかっていない」など、そうした括り方をした瞬間に相手の「顔」は消える。
ル・ボンが描いた群衆の中で個人が匿名化していくプロセスは、SNSで他者の顔が記号に還元される流れと、驚くほど類似している。群衆の中では、自分だけでなく他者も「顔」を失う。
群れることと、つながること
ここまで三回にわたって、群衆と大衆の心理を追ってきた。
ル・ボンとオルテガは群衆(大衆)の構造を描き、フロムは自由の重さが同調を生むと指摘した。アッシュやミルグラムの実験は「普通の人」がいかに流されるかを示し、アーレントは考えることを停止した先にある「悪」を追求し、レヴィナスは他者の「顔」に悪を押しとどめる力があると考えた。
さまざまな哲学者が深めてきたこれらの視点には、「人は集団の中で“自分”であり続けられるのか」という共通した問いがある。安易に集団から離れれば解決するというものでもない。考えるためのヒントは集団の中にいること自体ではなく、そこで他者と「どう関わるか」にあるのではないか。
ここで改めて「つながる」という言葉の意味を問い直す必要がある。SNSではフォロワー数や「いいね」の数で「つながり」を測りがちだ。しかし本当に「つながっている」と言えるのだろうか。
「群れること」と「つながること」は違う。「群れること」とは、同じ方向を向くことだ。そこでは個人の顔が見えないからこそ、安心して群れることができる。本当の意味で「つながること」とは、違いを認めながらも隣にいることであり、相手を理解できない他者として尊重しようとする態度を意味する。もちろん簡単なことではない。
SNSという空間は構造的に「顔」を消すようにできている。タイムラインの向こう側に「顔」を想像し続けることも、異なる意見の相手に冷静に向き合い続けることも、日常の中では何度も揺らいでしまうだろう。
自然にはできないからこそ、私たちは意識的に想像力を働かせる必要がある。画面の向こう側にいる他者を、自分と同じように痛みを感じる一人の人間として想像する瞬間に、倫理的なブレーキがかかる。群衆の中にいながら、隣にいる他者を想像できるのか。たしかに正解はない。しかしスマホを閉じたとき、目の前にある世界にこそ、かけがえのない「顔」が待っているはずだ。
Edited by s.akiyoshi
参考サイト・参考文献
マルティン・ブーバー『我と汝・対話』(田口義弘訳、みすず書房、1978年)
エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限(上・下)』(熊野純彦訳、岩波文庫、2005年)



























Sea The Stars
大学院で哲学(環境倫理学)を学んだあと、高校の社会科教員に。子どもの誕生をきっかけに、ライターへ転身。哲学や歴史をメインに執筆し、西洋哲学に関する書籍の執筆も担当。厳しい時代だからこそ、寛容さ(多様性)が大事だと考えている。週末は海外サッカー(プレミアリーグ)に夢中。
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