【第1回】ル・ボンの『群衆心理』──「大衆」とは誰のことか

SNSで多数派の意見に流されそうになるとき、私たちはすでに大衆の一部かもしれない。19世紀末、ル・ボンは群衆の中で個人の理性が溶けていく構造を見抜き、さらに20世紀のオルテガは「みんなと同じ」であることに安心する個人こそ、大衆であると論じている。二つの古典から「大衆」の正体を探っていきたい。

ル・ボンが見た「群衆」

1895年、ギュスターヴ・ル・ボンは『群衆心理』(原題 Psychologie des Foules)を刊行した。ル・ボンはもともと医師であり、1870年の普仏戦争に軍医として従軍している。翌年のパリ・コミューンでは、蜂起した市民が街頭を占拠し、暴力と熱狂が渦巻く光景を目の当たりにしており、こうした原体験が群衆の心理を探る出発点になったと考えられている。

当時のフランスでは、産業革命による都市化が急速に進んでいた。農村から都市へ人口が流入し、かつてない規模の人々が狭い空間に密集するようになる。政治の主役も王侯貴族から一般市民へと移りつつあり、社会を左右する力として「群衆」は無視できない存在になっていた。

この新しい時代の主役がどのような心理で動くのかを、ル・ボンは解き明かそうとした。彼が注目したのは「群衆の中で起きる個人の変質」である。集団に溶け込んだ人間は、ひとりでいるときの理性や判断力を失い、感情や衝動に流されやすくなっていく。

この現象についてル・ボンは「感情の伝染」という言葉で捉えた。冷静に考えられるはずの人間が群衆の一部になった途端、暗示にかかったように周囲と同じ行動をとり始めるのだ。

ここで見落としてはならないのは、ル・ボンが群衆を「愚かな人々の集まり」とは考えていなかった点にある。知識人や専門家も群衆に加われば同じ心理に巻き込まれていく。問題は個人の知性レベルではなく、集団自体が持つ構造の力にあった。

群衆を駆り立てる3つの手法

では、群衆をそのように駆り立てるのは何か。指導者が群衆に対して用いる手法として、ル・ボンは「断言」「反復」「感染」の3つを挙げている。簡潔で力強い言葉を断言し、それを繰り返すことで感情が群衆全体に伝播する。論理や証拠ではなく、言葉のリズムと反復が人々の判断を塗り替えていくのだと彼は見抜いたのだ。

この分析は20世紀の政治に深い影を落とすことになる。『群衆心理』は刊行後まもなく各国語に翻訳され、フロイトが『集団心理学と自我の分析』(1921年)で群衆の心理をさらに掘り下げる契機にもなった。

しかし同時にヒトラーやムッソリーニにも読まれ、大衆動員の技術に応用されたと指摘されている。ル・ボン自身がそうした政治利用を意図したわけではないが、「群衆は理性ではなく感情で動く」という洞察が、結果的に扇動の技術へ理論的な根拠を与えてしまった側面は否定しがたい。

群衆心理を解明しようとした著作が、群衆を操る道具として読まれた。この事実が群衆心理の力を逆説的に証明しているとも言えるだろう。


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オルテガの「大衆」

集団(群衆)の中で起きる心理を分析したル・ボンに対し、異なる角度から切り込んだ思想家がいる。スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットである。1930年に刊行された『大衆の反逆』の冒頭で、オルテガは「大衆が完全な社会的権力の座に登った」と書いている。

当時のヨーロッパでは、ファシズムとボリシェビズムが勢力を広げ、世界恐慌が人々の暮らしを根底から揺さぶった時代だった。しかしオルテガの目は、そうした政治的対立よりも、その底流にある精神の変化に向けられている。

オルテガによれば、大衆を生み出したのは近代自身だった。自由と民主主義が平等の意識を広め、科学技術が生活を豊かにし、工業化が物質的な充足をもたらした。こうした恩恵を「生まれながらに与えられたもの」として享受し、それを築き上げた先人の努力や葛藤に思いを馳せない精神が、「大衆」の原型であるとオルテガは見ている。

ここでオルテガが問題にしたのは、街頭に集まる群衆ではなく自分に問いを立てることをやめ、「みんなと同じ」であることに安住する精神的態度にほかならない。

ル・ボンの「群衆」と違い、「大衆」は目には見えづらい。社会階級ではなく「自分で考え続けるか、それをやめるか」という態度の違いを示す概念だからだ。オルテガの指摘が重要なのは、大衆はどこにでも存在しうる点にある。富裕層にも知識人にも、大衆は潜んでいる。

専門家も「大衆」になる

とりわけオルテガが批判の矛先を向けたのは、狭い専門領域に閉じこもり、それ以外の世界への関心を失った「専門家」の姿勢だった。たとえば医学には詳しくても、その知識が社会の中で「どう役立つか」に無関心な医師などがあげられるだろう。自分の専門についてはよく知っているが、その外側について考えることを放棄した人間は、知的能力が高くても「大衆」だとオルテガは論じている。

こうした大衆に対して、オルテガは「高貴な人」を対置した。ここでいう「高貴」は血筋や財産を意味しない。たとえ社会的に無名であっても、自分の考えや行動を問い直し、より高い基準に向かおうとする人間をオルテガは「高貴」と呼んでいる。この明確な基準が「大衆」と「高貴な人」を区別する。

つまりオルテガの視点に立てば、集団の外側にいることは安全を意味しない。部屋の中でスマートフォンを眺めていても流れてくる情報をそのまま受け入れ、自分に問いを立てることをやめた瞬間、誰でも「大衆」になりうるのだ。ル・ボンが描いた群衆の心理(行動)を、オルテガは個人の内面にまで押し広げたといえるだろう。


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人が「考えること」をやめるとき

ル・ボンは群衆の中で個人の理性が後退する現象を描き出し、オルテガは「考えることの放棄」が集団に属さずとも起こりうることを指摘した。二人が見つめていた対象は表現こそ違えど、根底ではつながっている。

人はなぜ、自分で考えることをやめてしまうのか。

現代では街頭に出なくても、スマートフォンの画面越しに群衆が生まれる。 タイムラインを流れる多数派の意見に「いいね」を押し、異なる声には目を止めない。群衆による「感情の伝染」と、大衆の 「考えることの放棄」が、同じ画面の上で静かに重なり合っている。しかも群衆の中にいる個人は流されているどころか、 「自分の意志で声を上げている」と感じていることが少なくない。

ル・ボンとオルテガが100年近く前に見抜いた構造は、かたちを変えながらも、現代を生きる私たちの日常生活で密かに作動し続けているのだ。

集団の中にいながら「考えること」をやめずにいるために、何が必要なのか。次回は人が同調してしまうメカニズムを、さらに掘り下げていく。

Edited by s.akiyoshi

参考サイト・参考文献

ギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』(櫻井成夫訳、講談社学術文庫、1993年)
ジークムント・フロイト『フロイト、無意識について語る』(藤野寛訳、光文社古典新訳文庫、2021年)
ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(神吉敬三訳、ちくま学芸文庫、1995年)

About the Writer
芦澤_Sea The Stars

Sea The Stars

大学院で哲学(環境倫理学)を学んだあと、高校の社会科教員に。子どもの誕生をきっかけに、ライターへ転身。哲学や歴史をメインに執筆し、西洋哲学に関する書籍の執筆も担当。厳しい時代だからこそ、寛容さ(多様性)が大事だと考えている。週末は海外サッカー(プレミアリーグ)に夢中。
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