芸術の中で育まれるメメントモリ。人は死をどう描いてきたか

「死」を意識、なんてしたくない

「死を意識して生きる」果たして現実的にそんなことが可能なのだろうか。普段の生活の中で「死」を意識しながら暮らすことは、極めて困難だ。考えすぎて眠れなくなるかもしれない。あるいは大切な人の死を想像し、その恐怖に怯えながら苦悩する羽目になるかもしれない。

感情も思考も感覚もすべて消え去る。愛するものと二度と会えない。自分が自分でなくなることなど、考えたくもない。いずれ死ぬことを考えると、これまでやこれからの人生で得ることなど、何の意味もないのだと絶望する人もいるかもしれない。それほど、死というのは人間に恐怖を与えるものだ。だからこそ、現代では「死」について触れることは不謹慎であり、タブー視されている。

一方で、「死を忘れるな」という意味の「メメントモリ」という言葉がある。古代ローマ帝国で誕生した「死」への向き合い方であり、宗教や芸術、哲学とさまざまな分野で取り入れられてきた概念だ。そして実は、現代のポップカルチャーにおいてもメメントモリが再評価されている。

誰だって死ぬのは怖い。だからといって、死に怯えながら生きるのは何だかもったいない気がする。「メメントモリ」は死に対する恐怖以上の何か、言うなれば〈信念〉のようなものを私たちに与えてくれる。人生で一度でも「何のために生きてるんだろう」と思ったことがある人であれば、余計に。

メメントモリと芸術の関わり

メメントモリに通ずる概念は古代ローマ帝国で生まれた。古代ローマでは、戦いに勝利した将軍が凱旋した際、「いつか死ぬことを忘れるな」という警句をかけていたとされる。この言葉は「あなたは不死身の存在ではない。勝利に奢ることなく常に死を意識し、謙虚さを保て」という教訓だったようだ。

時代は下り、中世ヨーロッパではペスト(黒死病)が大流行。当時の世界人口の約4分の1にあたる人々が命を奪われたという。こうした時代背景から、死は身近なものと捉えられ「死の舞踏」や「死の勝利」などの教訓画が誕生した。

「死の舞踏」では「死」という概念が骸骨として描かれ、さまざまな人々を踊りながら誘う様子が見られる。また「死の勝利」では、「死」が生きるものすべてに勝利する様子が描かれている。これらの絵画にはあらゆる階級の人々が描かれており、ここから「死は誰にでも等しく訪れる」「どんな権力者でも死に勝てるものはいない」というメッセージが示唆されていることが読み取れる。

ミヒャエル・ヴォルゲムート『死の舞踏』1493年、版画

こうした時代を経て、「生の儚さ」は多くの芸術作品で描かれるモチーフとなる。「ヴァニタス(空虚)」という静物画のジャンルもその一つで、いずれ死ぬのなら、あらゆることが無意味だとする悲観的な感情が表現されている。ルネサンス・バロック期の絵画には、ロウソク、シャボン玉、懐中時計、頭蓋骨、花瓶に生けられた花など、この世の無常さを象徴するものが多く描かれていた。

メメントモリはどう描かれているか

メメントモリで象徴的なモチーフであるドクロ、朽ちていく花や本、ロウソク、時計、飛んでいるシャボン玉などは、どれも時間の経過を感じさせるものばかりだ。人間は、不可逆的な存在である「時間」に抵抗することはできず、いずれ必ず訪れる「死」を受け入れなくてはならない。古来人間はその問題に対し、何千年もかけて向き合ってきたのだ。

私たち日本人に馴染み深い童謡『シャボン玉』は、夭逝した子どもへの鎮魂歌ではないか、とする説がある。決定的な根拠がないため仮説の域を出ないとされているが、こうした説が生まれること自体、シャボン玉に生の儚さを見出す人が多いということだろう。ふわふわと漂いながら、生まれてすぐに割れてしまうものもあれば、天高く昇っていくものもある。しかし、どんなシャボン玉でもいずれ必ず割れる運命にある。

朽ちていく花も同じだ。どれほど大きく美しく咲き誇った花も、いつか枯れる。長いロウソクも溶けてなくなる。人間も、どんな人だろうと必ず最後はドクロになる。生きとし生けるものは、皆すべて同じ宿命を背負っているのだ。

死は怖いものか? 悲しいものか? どうせ死にゆくならば生きることに意味はないのか? 死後はどんな世界だろうか?ーこうした死への疑問に対する答えを、芸術家たちはさまざまな形で作品に込めてきた。

そうした作品づくりは、はるか昔から行われていたようだ。紀元後79年に一夜にして姿を消した、古代都市ポンペイ。付近のヴェスヴィオ山の大噴火によって地中に埋もれた町の出土品の中には、繊細に作られたドクロのモザイク画がある。後世に「メメント・モリ」と名付けられたそのモザイク画からは、古代ローマの人の「常に死と隣り合わせに生きる」という気概が見受けられる。しかし死をモチーフにしていながら、悲壮感は感じられない。むしろ「いつ死ぬのかは誰にもわからない、だからこそ今を精一杯生きよう」というメッセージに思えてくるのではないだろうか。

ポンペイのモザイク画「メメント・モリ」

現代社会の死生観と変容

たった80年前まで、世界は常に死と隣り合わせだった。不治の病、飢餓、二度の世界大戦……我々人類の周りにはどんなときも「死」というものが付き纏っていた。また、何世代もの人間が同じ屋根の下や近所に暮らしていた時代には、年長者の死は子どもたちにとっても日常であった。死は怖いものではなく、人生の一部であると捉え、同時に人の死を悼む気持ちも育まれていった。彼岸や盆には死者の魂を迎え入れ、祖先を大切にする文化によって、必要以上に恐れることのない死生観を自然に身につけていたのだ。

翻って現代では、多くの人にとって死は身近なものではなくなった。核家族化が進み、近所付き合いも減り、お葬式に参加したことのない人も増えている。身近な人の「死」を経験したことがない人は、子どもだけではなく大人にも多い。

医学が発展し、寿命が格段に伸びたことは人類の素晴らしい功績ではあるが、それと比例して、現代人は命を大切にする気持ちが薄れていったように感じる。「死ぬ」「死んだ」という言葉を、軽い意味で日常的に使う人は、大人にもいる。そして平成半ばには、子どもが他人の命を奪うという悲しい事件が続いた。その頃は、「死んだ人が生き返る」と思っている子どもが15%強もいるという驚くべき調査結果もあった(*1)。

しかし近年、その様相に変化が起きている。未曾有の大災害や世界的なパンデミック、戦争の勃発など、死を身近に感じる出来事が多発していることから、「メメントモリ」の概念が再評価されているという。これまで多くの芸術家たちが作品に込めてきたように、現代ポップカルチャーの中でメメントモリが取り込まれているのだ。

(*1)児童生徒の「生と死」のイメージに関する意識調査を生かした指導|長崎県教育委員会

現代カルチャーに刺さるメメントモリ

例えば、Mrs.GREEN APPLEの大森元基は、自身のソロプロジェクトで「メメント・モリ」という楽曲を発表している。死という未知のものに対し、怖がる気持ちを抱きつつも、「今日までの幸せ数えたら なんてこと無いのです。」と、爽やかなサウンドで歌っていることが印象的だ。

また、2022年にはスマートフォンおよびPC向けのゲームアプリ「メメントモリ」がリリースされた。日本古来の「もののあはれ」をコンセプトとしており、特殊な力を持つ少女達が、呪われた世界を救うために「魔女狩り」と戦いながら奮闘していく物語だ。

かつて、子どもたちが「人が生き返る」と思う理由にゲームの影響があったことから、ゲームは長らく危険なものとして問題視されてきた。そのゲームにおいて生の儚さを謳う作品が登場したことは、現代人の死生観を問い直す大きな機会が生まれたと捉えることもできる。

日本が世界に誇る漫画やゲームなどの「ジャパニーズカルチャー」は、今では立派な芸術の一つとして評価されている。そうした作品を通して命の大切さを説くーそういう時代に移ってきたのかもしれない。

「死」を通して「生」に触れる

日常生活の中で「死」を意識している人は、どれほどいるだろうか。おそらく多くの人が、普段は「自分もいつか死んでしまう」ということを忘れているだろう。死が身近にあった時代とは異なり、現代において死というものは非日常とさえ言える。

「死ぬ」というのは何とも恐ろしい。口に出したくもない。ほとんどの人がそう感じるだろう。死んでしまえば、何もかもが「無」になる。日々を生きる私たちにとって、想像もできないことだ。

芸術作品は、時代を超えて私たちにあらゆる問いを投げかける。はるか昔から多くの人間が考え続けていながら、未だに答えが出ていない問いが「人はなぜ生きるか」というものだ。「メメントモリ」は、その問いに対する一つの答えとなるかもしれない。「死」を見つめることで「生」を問うことになる。死と生は、いつだって表裏一体だ。

いや、そう言いながら、実はそんなに重いものではない可能性もある。「明日死ぬとしたら何が食べたい?」「今日死ぬとしたら何がしたい?」芸術が投げかける問いは、もしかしたらそれほど軽いものかもしれない。ただし、それに簡単に答えられる人は、果たしてどのくらい存在しているのだろうか。できるだけ、じっくり考えてみたい。

今を生きよう。精一杯生きよう。その瞬間が来るまで、後悔のないように「私」を一生懸命に生き抜いていこう。あぁ楽しかったと、笑って旅立つことを夢見て。

参考サイト
人生を肯定した人々 「ポンペイ展」(2022.06.01) | 京都大学新聞社/Kyoto University Press
‘メメント・モリ’ Official Lyric Video|Motoki Ohmori 
メメントモリ|バンク・オブ・イノベーション

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秋吉 紗花
大学では日本文学を専攻し、常々「人が善く生きるとは何か」について考えている。哲学、歴史を学ぶことが好き。食べることも大好きで、一次産業や食品ロス問題にも関心を持つ。さまざまな事例から、現代を生きるヒントを見出せるような記事を執筆していきたいです。