
未知の風景への憧れ、美味しい食事、日常からの逃避——旅をする動機はさまざまだが、帰路につく頃には、不思議と以前より少しだけ心が軽くなり、周囲の人に対して寛容になれている自分に気づいた経験はないだろうか。本記事では、脳科学や心理学の研究データをもとに、移動とウェルビーイングの意外な相関関係を紐解いていく。
移動量とウェルビーイングは比例する?行動データで見る幸福度の変化

「今日はあちこち動き回って疲れたけれど、なんだか充実していた」——近年、そんな感覚の正体が、研究によってデータとして可視化されつつある。
GPSが明かす「移動」と「ポジティブ感情」の相関
2020年、マイアミ大学やニューヨーク大学の共同研究チームが、被験者のGPS位置情報を数ヶ月間にわたって追跡し、スマートフォンを通じて日々の感情を記録するという調査を行った。その結果、「移動範囲が広かった日」ほど、被験者は幸福感や興奮といったポジティブな感情を強く抱いていることが判明した。
ここで重要なのは、単に「長距離を移動すれば良いわけではない」という点だ。研究では、訪れた場所の「ローミング・エントロピー(移動の多様性)」が鍵であると指摘されている。つまり、毎日同じルートで長距離通勤をするよりも、たとえ近場であっても「いつもとは違うカフェに行く」「初めての路地を歩く」といった新規性のある移動のほうが、脳に良い刺激を与えるのだ。
新しい場所が脳の「報酬系」を刺激する
なぜ場所の変化が幸福感につながるのだろうか。 進化心理学的な視点では、太古の昔、人類にとって「移動」は食料や資源の獲得と同義であり、新しい場所を探索し資源を見つけることは生存に直結していたと考えられている。そのため、私たちの脳は「新しい場所に行くとドーパミン(快楽物質)が分泌される」ように進化した可能性がある、という仮説が提唱されている。
現代の私たちが旅先で感じる高揚感は、この古代から受け継がれた「探索への報酬システム」が作動している証拠かもしれない。
「幸せだから動く」のか「動くから幸せ」なのか
ただし、因果関係については慎重な視点も必要だ。「気分が良いから出かけた」のか、「外出して新しい刺激を受けたことで、気分が向上した」のかは、単純には判断できない。
しかし前述の研究では、もともと活動的な性格という個人差を統計的に調整してもなお、移動の多様性と幸福感の相関が確認されている。つまり、心が塞ぎ込んでいる時ほど、意識的に「いつもと違う場所」へ足を運ぶことが、ウェルビーイングを取り戻すきっかけになる可能性があるのだ。
知らない文化に触れると、人はなぜ優しくなれるのか

物理的に遠くへ行き、自分とは異なる文化や人々に触れることは、私たちの認知的特性や社会的態度さえも変える力を持っている。
認知的柔軟性が育む「寛容さ」
コロンビア大学のビジネススクールの研究では、海外滞在経験が豊富な人ほど、物事を多角的に見る能力(認知的柔軟性)や創造性に優れていることが示されている。
自分の常識が通用しない環境に身を置くと、脳は「なぜ彼らはこうするのか?」という背景を理解しようと働く。異なる枠組みで物事を捉え直すこのプロセスが、脳の可塑性を高め、多様な視点を受け入れる土壌を育てるのだ。
「異文化受容」が心の壁を溶かす
社会心理学における「接触仮説」は、偏見や差別の多くが「相手を知らないこと」から生じると説く。旅先で道に迷い、現地の人に助けてもらった経験。言葉が通じない中で身振り手振りで意思疎通ができた瞬間の喜び。こうした対等な立場での交流は、ステレオタイプを崩し、相手を一人の人間として見る目を養っていく。
「世界には多様な正解がある」と知ること。そして、「自分もまた、ここでは異邦人である」という立場の弱さを経験すること。この2つの認識が、他者の失敗や違いに対して不寛容になりがちな現代人の心を、柔らかく解きほぐしてくれる。
日常から離れると、なぜ心は回復するのか

最後に、旅が持つ「回復」の効果について見ていこう。
組織心理学の研究では、仕事のストレスから回復するためには、物理的に職場を離れるだけでなく、心理的に仕事から切り離された状態(心理的脱離)が不可欠とされている。自宅で休暇を過ごしていても、つい業務メールをチェックしてしまえば、脳は「オン」の状態のままだ。
しかし、旅に出て環境を強制的に変えることで、五感への入力情報が刷新される。見慣れない景色、聞こえてくる異国の言葉、その土地特有の香り——これらが五感を占有することで、脳は日常の悩みや役割から引き剥がされ、真の休息を得られる。
特に、自然環境を含む旅は、ストレスホルモン(コルチゾール)の値を著しく低下させることが数多くの研究で実証されている。都市生活では、信号、騒音、人混みなどに対し、脳は常に「指向性注意(意識的な集中)」を強いられる。一方、自然の中では、揺れる木々や波の音に受動的に注意が向けられるため、疲れた脳の集中回路を休ませることができる。
また、旅先での移動中、ぼんやりと車窓を眺める時間は、脳の「デフォルト・モード・ネットワーク」を活性化させる。この「マインドワンダリング(心の迷走)」の状態こそが、情報の整理や自己肯定感の回復、そして創造的なひらめきを生む揺りかごとなるのだ。
変化のない日常は安心感を与えてくれるが、時に心を硬直させる。移動することは、脳に新鮮な刺激を送り込み、凝り固まった「自分」という枠組みを揺さぶり、再び世界と繋がり直すための能動的なアクションだ。
遠く海外へ行くことだけが旅ではない。いつもは降りない駅で降りてみる。 地図を持たずに、知らない角を曲がってみる。そんな小さな「移動の多様性」から、ウェルビーイングは確実に高まっていく。
Edited by k.fukuda
参考サイト
「人は移動するほど幸せを感じる」という研究成果 「遠出するとスカッ」は本能かも|朝日新聞GLOBE+
Association between real-world experiential diversity and positive affect relates to hippocampal–striatal functional connectivity | Nature Neuroscience
外国暮らしの「深さ」が自己意識をより明瞭にする | 戦略|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー
旅の効用: 人はなぜ移動するのか(ペール・アンデション(Per J. Andersson) )
心理的ディタッチメント: 仕事以外の時間に仕事から心理的に距離をとること | 労働安全衛生総合研究所
人はなぜ、森へ行くとリラックスするのか。 | MAY 2024 | HIGHLIGHTING Japa






















夢野 なな
ライター、イラストレーター。芸術大学美術学科卒業。消費が多く騒々しい家族に翻弄されながらも、動植物と共存する生き方と精神的な豊かさを模索中。猫と海、本が好き。神奈川県の海に近い自然豊かな田舎で暮らす。創作に浸る時間が幸せ。
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