
家庭や職場、学校といった日常の役割から離れ、自分らしくいられる「サードプレイス(第三の居場所)」が今、変容している。地域コミュニティが衰退する一方で、新たな「居場所」として台頭しているのが「推し活」だ。本記事では、既存の居場所が機能しにくくなった背景や、推し活が果たす役割と課題を社会学や心理学の視点から考察する。
なぜ従来のサードプレイスは機能しにくくなったのか

サードプレイスとは、アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが提唱した概念で、第一の場所(家庭)、第二の場所(職場・学校)のいずれでもない、個人が自由にくつろげる空間を指す。
かつての日本社会では、近所の商店街や地元の寄り合い、あるいは職場の「飲みニケーション」などがその役割を緩やかに担っていた。しかし、現代においてこれらの場所は、もはや「居心地の良い場所」として機能しにくくなっている。
主な要因の一つは、職場や家庭といった既存の人間関係において、固定された「役割」を演じることによる疲弊だ。例えば、若手社員が少ない職場で働く人の場合、周囲との共通の話題が見つからず、職場ではただ「言われたことをやるだけの無口な人間」として振る舞うことを選ばざるを得ないことがある。本当はおしゃべりな性格であっても、その場に適したキャラクターを演じるうちに、自分自身の世界が狭まっているような閉塞感を感じてしまう。
また、結婚を控えたパートナーの家族との付き合いにおいても、たとえ相手が良い人たちであっても、親戚の集まりに必ず参加しなければならないといった強い絆が、自由な時間を奪うプレッシャーに変わることもある。
さらに、伝統的な地域コミュニティや常連文化の衰退も影響している。かつてのような密接な近所付き合いは、確かに安心感をもたらしていた。しかしその一方で、「あの家の人はこうだ」という世間体や、その場所に居続けるためには負担を伴うことが多かった。例えば、草むしりや祭りといった行事への強制的な手伝い、あるいは周囲の期待から外れないように振る舞うための過度な気遣いなどが、現代人にとっては重荷になりつつある。
多くの人々が今の人間関係に求めているのは、こうした「やらなければならないこと」がある場所ではなく、もっと気楽で、いつでも外れることのできる自由なつながりだ。日常の役割に縛られ、会話の一つひとつに気を遣わなければならない既存のコミュニティは、現代人にとってサードプレイスどころか、むしろ新たなストレスの源泉になってしまっていると言える。
推し活が「居場所」として成立している構造

既存の居場所が息苦しさを増すなかで、「推し活」が多くの人にとっての代替的なサードプレイスとして浮上してきた。かつての「オタク」という言葉には、どこか暗いイメージが伴うこともあったが、現代の「推し活」はSNSによる活動の可視化や、明るくクリエイティブな文化として定着している。
甲南女子大学の池田教授は、「なぜ自分がその推しを好きなのかを考えることは、自分を知ることにつながります。そして私は、成長とは他者を知り自分自身を知ることだと考えています。」と語る(*1)。社会学的な視点で見ると、推しについて深く考えることは自分自身を知ることにつながり、「推し活」自体が「自分という人間」を確認する場として機能しているのだ。
また、認知科学を専門とする愛知淑徳大学の久保教授は、推し活が日常から切り離された「非日常の世界」で行われる点に注目している(*2)。久保教授によれば、推し活は自分の日常生活とは直接関係のない相手を応援する活動であり、そこには「こうしなければならない」といった義務や面倒なしがらみがない。
日常から少し離れた「非日常」の世界に身を置くことが、現実社会でのストレスや役割から自分をリセットさせてくれる。それが結果として、心からリラックスできる時間をもたらしているというのだ。こうした心理的な安心感があるからこそ、推し活では「自分自身の自由」を一番に考えたつながりが生まれやすい。もっとも、推し活の場にも暗黙のルールや空気感が生まれることはあり、非日常的なつながりであっても、SNS上では知らず知らずのうちに同調圧力を感じてしまう場合もある。
そうした揺らぎを含みつつも、自分の生活スタイルに合わせて、相手や仲間との距離感を自分で決められる点は、推し活の重要な特徴だ。昔ながらの地域の集まりなどは、一度入ると抜けにくい空気感があったが、推し活は自分の意思で参加するものであり、「しんどい」と感じればいつでもその場から離れられる。こうした「無理をしなくていい仕組み」が、現代人の心の余裕を守っていると言える。
最近では、SNSやメタバースなどのデジタル空間での活動も増えており、多くの人が本名や学校名を伏せたアカウントで活動している。現実の自分に貼られた「学生」や「社会人」といった肩書きを一度脱ぎ捨てられれば、純粋に「好き」という気持ちだけで他者と向き合いやすい。匿名として現実世界の人間関係から自由になり、自分の内面にある素直な気持ちを安心して出せるようになるのだ。
推し活は、どこまでサードプレイスと言えるのか

推し活が現代の重要な居場所であることは確かだが、それがオルデンバーグの提唱した伝統的なサードプレイスとまったく同じ性質を持つわけではない。物理的な場所での交流と、デジタルを中心とした推し活のコミュニティには、いくつかの決定的な違いが存在する。
一つは、相互性や現実的な支え合いが弱いという点だ。昔ながらの地域コミュニティであれば、災害や病気で困ったときに助け合える仕組みがあった。それに対して推し活のつながりは、あくまで「好きなものが同じ」という一点で結びついた関係にすぎない。そのため、応援していた対象がいなくなったり、自分自身の熱が冷めたりした瞬間に、その場所自体が消えてしまう危うさがある。推し活がくれるのは、あくまで毎日を乗り切るための活力や癒しであり、生活そのものを直接支えてくれるわけではない。
また、のめり込みすぎてしまう「推し疲れ」のリスクも問題視されている。時間やお金、体力を推し活に注ぎ込みすぎて、現実の勉強や生活がボロボロになってしまうケースだ。ファン同士を競わせたり、必要以上にお金を使わせたりする仕組みに巻き込まれると、そこは安らげる場ではなく、新しい競争や疲れる場に変わってしまう。本来の居場所に求められる「穏やかさ」が、ビジネス的な戦略やSNSの「みんなと同じでなきゃいけない」という空気に壊されないよう、常に一歩引いた視点を持つことが大切だ。
それでも、多くの人が推し活に「居場所」を求め続けるのは、「そこで何かができるから」ではなく「ただそこにいるだけで認められる空間」だからだろう。学校の成績や家族の中での役割とは関係なく、自分が選んだ「好き」という気持ちだけで誰かとつながれる。そうした時間の積み重ねが、人との関わりが薄くなった今の社会で、自分を見失わないための支えになっている。
推し活は、従来の居場所では難しかった「自分らしさを大切にする文化」や「感情の自由」を、新しい形で作り出している。メタバースなどの新しい空間が「もう一つの現実」として大事にされているのも、そこに「本当の自分が認められる実感があるから」ではないだろうか。
推し活という形をとった新しい居場所が、今後どのように成熟した文化へと進化していくのか。私たちがそこから何を受け取り、現実の生活とどう折り合いをつけていくのか。そのあり方は、これからも時代とともに変化していくだろう。
Edited by k.fukuda
注解・参考サイト
注解
*1 「推し活」はクリエイティブな文化 大学教授が語る「好き」が学問になる世界|朝日新聞Thinkキャンパス
*2 子どもの「推し活」、3つの心理的効果 保護者はどう見守る?|日本経済新聞
参考サイト
「推し活で第3の居場所を見つけた」 。20代女子の人間関係の悩みとは?【ブレイディみかこ連載】|集英社
若者における「推し」の意義と心理的効果|明星大学
バーチャル空間に広がる新しいサードプレイスのかたち|ここち
























丸山 瑞季
大学で国際コミュニケーション学を専攻。卒業後はデジタルマーケティングに携わり、現在は難聴児の子育てに奮闘しながら、楽しく生きることをモットーに在宅で働く。関心のあるテーマは、マインドフルネス、ダイバーシティ、心理学。趣味は、食べること、歩くこと、本を読むこと。( この人が書いた記事の一覧 )