動ける人と、動けない人。モビリティから考える不平等

朝の通勤、週末の外出や旅行。私たちは当たり前のように「動く」ことを選択している。しかし、その自由は万人に等しく開かれているわけではない。収入や身体状況、居住地によって生じる「移動格差」は、不便の差を超え、教育・労働・健康といった人生の質を左右する。本記事では、移動という視点から現代社会に潜む不平等の構造を問い直す。

同じ街にいても、同じようには動けない

目的地までの距離が同じであれば、誰もが同じように移動できていると錯覚しがちだ。しかし実際には、その人の立場や身体条件によって、移動の体験は驚くほど異なる。

例えば、駅から徒歩10分の場所にある役所へ行くシーンを想像してみよう。健康な若者であれば、スマートフォンの地図を見ながら最短ルートを歩くだけで済む。しかし、車椅子ユーザーやベビーカーを押している人にとっては、同じ距離の移動でも多くの制約を伴う。

歩道のわずかな段差、急な坂道、エレベーターのない歩道橋。これらは移動を阻む壁となり、場合によっては遠回りを余儀なくされる。同じ目的地に向かっているはずなのに、到着までに倍以上の時間と体力を消耗することも少なくない。

このように、人々の移動をめぐる機会や結果に生じる不平等のことを「移動格差(モビリティ・ギャップ)」と呼ぶ。この格差は、「目的地にたどり着くのが大変だ」というレベルの話では終わらない。移動の負担が大きければ、外に出ること自体を諦めるようになり、それが社会参加の機会を奪うことにもつながるのだ。

移動の格差は身体的な条件だけでなく、経済的な状況とも深く結びついている。調査データによれば、年収300万円未満の層では、過去1年間に居住している都道府県の外へ旅行したことがない人の割合は45.6%と、約半数にのぼる(※1)。一方で、年収600万円以上の層ではその割合は18.2%にとどまる。

観光やレジャーといった移動は、個人のリフレッシュだけでなく、新しい価値観に触れたり、人間関係を広げたりするための重要な機会だ。経済的な理由で移動が制限されることは、その人が得られる情報や経験の量にまで差を生んでしまう。

移動には「アクセス(交通手段への接続)」「スキル(運転免許や言語能力)」「認知的充当(移動をどう捉えるかという価値観)」といった要素が必要で、これらは一種の「移動資本」とも言える。この資本を十分に持っていない人は、同じ街に住んでいても行きたい場所へ行けず、会いたい人に会えない。

こうした状況が積み重なると、特定の層だけが社会から切り離されていく「社会的排除」が引き起こされる。移動ができるかどうかは、その人が社会の中でどれだけ自由に生きていけるかを決定づける重要な要素なのである。


行けない人をどう支えるか。万博LET’S EXPOに学ぶユニバーサルツーリズムの実践

誰を基準に、街は設計されてきたのか

なぜこれほどまでに移動のしにくさが生まれるのか。それは、「動けない側」の人に問題があるのではなく、街の設計思想そのものに原因があると考えられている。現代の都市や交通網の多くは、若くて健康で、一定のスピードで歩ける「標準的な大人」をモデルにして作られてきた。

例えば、通勤電車のラッシュアワーを考えてみてほしい。あの過酷な混雑はシステムとして意図されたものではないが、その現状が維持されている背景には、体力のある大人が耐え抜くことを暗黙の前提としている側面がある。小さな子どもを連れた人や、足腰の弱い高齢者がその空間に入り込む余地はほとんどない。

また、駅の階段・狭い改札口・複雑な乗り換え経路なども、効率性を優先するあまり、身体的な制約を持つ人の視点が抜け落ちていることが多い。社会が想定する「標準」から外れた人々にとって、街そのものが移動を拒む構造になっているのである。

このように、特定の人々を排除してしまう構造を根本から見直す考え方が、「ユニバーサルデザイン」である。これは、特定の誰かのために後から対策を講じたり、不便な箇所を修正したりする手法ではない。最初から「あらゆる状態の人が利用すること」を大前提として、環境や製品を設計する思想を指す。

現状の街づくりは、段差があることを当然とし、後からスロープを「付け足す」という発想が根強い。しかし、それでは「標準から外れた人への配慮」という枠組みから抜け出すことはできない。段差があることが当たり前、車が優先されることが当たり前という前提自体が、特定の誰かを「動けない人」として作り出しているのだ。

さらに、地方における自動車依存も構造的な不平等の一因となっている。公共交通機関が衰退し、車がなければ生活が成り立たない地域では、運転免許を持たない若者や、加齢により免許を返納した高齢者は、たちまち移動の自由を奪われる。

高齢者の事故防止のために免許返納を促す議論は盛んだが、返納した後にどうやって病院へ行き、どうやって買い物を済ませるのかという代替手段の確保は後回しにされがちだ。これは、健康なドライバーを基準に社会を維持し、そこからこぼれ落ちる人々を「自己責任」として切り捨てている構造に他ならない。

街の設計や制度のあり方は、その社会が誰を大切にし、誰を透明な存在として扱っているかを如実に映し出す。私たちが「便利だ」と感じているインフラも、実は誰かの不便や排除の上に成り立っている可能性がある。設計の段階から多様な人々を包摂する視点を持たない限り、真に開かれた社会とは言えないだろう。


インフラにもユニバーサルデザインを

自由に動ける社会とは、どういう社会か

移動をめぐる格差を解消するためには、移動を個人の努力や工夫に委ねるのではなく、社会が保障すべき「権利」として捉え直す視点が必要だ。移動の自由が確保されていなければ、居住や職業選択の自由といった他の権利も十分に機能しないからだ。

自由に動ける社会とは、どのような身体状況や経済状況であっても、自分の意思で場所を選び、安全に移動できることが仕組みとして保障されている社会である。

現代社会では、ITを駆使してどこにいても仕事ができる「モバイル・エリート」が存在する一方で、特定の場所に留まってサービスを提供しなければならない人々や、物理的・経済的な障壁によって移動を制限される人々がいる。移動できる人の利便性が、移動できない人々の存在や犠牲によって支えられている側面があることを、私たちは認識しなければならない。

私たちは誰しも、事故や病気、あるいは加齢によって、いつか「動けない側」になる可能性がある。今は自由に動けている人も、一時的に車椅子が必要になったり、将来的に車の運転ができなくなったりするかもしれない。特定の弱者のための支援ではなく、自分たち自身の将来の権利を守るためのインフラ整備として、移動の公平性を追求していく必要がある。これは「ソーシャルインクルージョン(社会的包摂)」、つまり誰も社会から排除されない状態を実現するための基本条件だ。

移動とは、ある地点から別の地点へ身体を運ぶだけではない。他者と出会い、新しい知識を得て、自分自身の可能性を広げるための手段でもある。移動の機会が平等に開かれている社会こそが、真に豊かな社会と言えるのではないだろうか。「効率性」や「標準」という言葉の陰に隠れた不平等を可視化し、最も動きにくい人の歩幅に合わせた街づくりを構想することが、これからの時代に求められる設計思想である。誰を前提に社会を築くのかという問いを、自分たちの問題として考え続けることが必要だ。

Edited by k.fukuda

注解・参考サイト

注解
※1 年収300万円未満の人の半分近くが「国内旅行に行ったことがない」…データで明らかになった「日本人の移動にまつわる格差」|文春オンライン

参考サイト
なぜDVや中国人差別が増加したのか…コロナ拡散のための「移動制限」が招いた“負の側面”|文春オンライン
多くの人が意外と知らない、「移動できる人」と「移動できない人」の決定的な格差(伊藤 将人)|現代新書
移動格差(モビリティ・ギャップ)とは何か?社会学者がわかりやすく解説|KAYAKURA
日本人が「移動」しなくなっているのはナゼ? 地方で不気味な「格差」が拡大中(貞包 英之)|現代ビジネス
海外旅行格差から見える日本社会の深い分断|Newsweek 日本版

本記事は、特集「『移動』とは何か——AI時代に考える、移動の意義」に収録されている。動かなくても生きられる時代に、私たちはなぜ動くのか。 AI時代における移動の意味を、人間と社会の関係から見つめ直す。ほかの記事もあわせて、より多角的な視点を見つけよう。

動きやすさを、都市がつくる。 富山市に見る「まちなかの移動」のデザイン
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About the Writer
丸山瑞季

丸山 瑞季

大学で国際コミュニケーション学を専攻。卒業後はデジタルマーケティングに携わり、現在は難聴児の子育てに奮闘しながら、楽しく生きることをモットーに在宅で働く。関心のあるテーマは、マインドフルネス、ダイバーシティ、心理学。趣味は、食べること、歩くこと、本を読むこと。この人が書いた記事の一覧

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