沈黙も議論も許される空間。イギリスのパブが果たしてきた役割

イギリスの文化を象徴する「パブ」は、長い年月を経て、今もなお人々の憩いの場として親しまれている。そんなイギリスのパブ文化が体現する「公共の家」としての価値は何なのか。なぜそこでは、語り合うことも、あえて沈黙することも受け入れられてきたのか。本記事では、パブの歴史をたどりながら、その独自の社会的な価値を探っていく。

人々の生活の中心にあった「公共の家」

イギリスのパブは、お酒や食事を提供する場であると同時に、人々の生活に深く根ざした「社交の場」として人々に親しまれている。

「パブ(Pub)」とは「Public House(公共の家)」の略称であり、その役割は「お酒を飲む場」だけにとどまらない。人々が集い、関係を結ぶ場としての公共性は、長い年月をかけて形作られてきた。パブの起源には諸説あるが、有力なものの一つとして、約2000年前にローマ軍がブリテン島にもたらしたイタリア式の居酒屋が挙げられる。その後、イギリス原産のエール(ビール)を中心に提供する「エールハウス(酒場)」が定着し、地域の人々が日常的に集う場となっていった。さらには旅人のための宿泊施設としても機能するようになり、地元住民と外部の人間が交わる場としての性質も強めていく。それは、生まれや身分に関わらず、一時的に同じ空間を共有する場所でもあったのだ。

おもに産業革命期以降、イギリスでは社会構造の変化とともに、人々の階級が「上流」「中流」「労働者」として意識されるようになった。時代とともに人々の立場は多様化していったが、パブはそうした役割から一時的に距離を取れる場所として、私的空間でも公的制度でもない中間的な存在であり続けた。

年齢や職業という垣根を越え、仲間同士やその場で出会った者同士で語り合うことも、ただ話を聞き、そこに居るだけでも構わない。新聞を広げて静かに過ごしたり、カウンター越しに周囲の会話に耳を傾けたりするだけでも、十分に居心地のよい時間となる。

パブは人々が一日の労働を終え、くつろいだり情報交換をする重要な「コミュニティ空間」でもあったのだ。とくに長時間労働が当たり前だった時代には、仕事と家庭のあいだに息をつくための場所として、パブは欠かせない存在だった。家でも仕事場でもない場所で、「社会とのつながり」を感じられる。パブが担ってきたのは、その希少な「公共の家」としての役割だったのだ。


食事の提供だけではない。こども食堂の様々な役割から子どもの現状を知る

沈黙と議論が共存する、ゆるやかな公共性

パブは、家庭(ファーストプレイス)や職場・学校(セカンドプレイス)から離れ、リラックスできる「サードプレイス(第三の場所)」の代表的な存在として認識されている。そこでは、役割や肩書きから一時的に解放され、一個人として過ごすことが許されてきた。

地域社会とつながる「窓口」であるパブは、幅広い客層が集う場としてイギリス人に長く愛されてきた。カウンターでひとりグラスを傾ける常連、新聞を読みながら静かに過ごす客、スポーツの試合の話題で盛り上がるグループ――それぞれが異なる距離感で、同じ空間を共有する。目的がお酒を飲むことでも、友人と語らうことでも、一人でくつろぐことでも、仲間と議論することでもいい。

常連客や旅人、家族連れなど、老若男女さまざまな人が交流するなかで、独自のパブ文化が根付いていった。家庭や職場のようにそれぞれの役割を意識しなくても、会話に積極的に加わらなくても、そこに居続けることをとがめられる空気はなかった。意見の違いがあったとしても、沈黙や距離を保ちながら共存できる余白が残されていた。

また、パブでは政治や社会問題について意見を交わすことも珍しくなかったが、結論を一致させることが目的ではなかった。意見が合わなければ距離を取る、話題を変える、沈黙する。そうした振る舞いも自然に受け入れられていたのだ。

そんな自由な空間だったからこそ、人々は自分のペースで社会と関わることができた。参加も沈黙も、関与の深さも自分で選べる。そんな柔軟さこそが、パブを長くサードプレイスとして機能させてきた理由なのではないだろうか。


自然と人と、ちょうどよい距離でつながる。ガーデンがつくるサードプレイス

変わりゆく時代と、それでも残ろうとする場所

イギリスの伝統的な大衆酒場として成熟してきたパブは、長らく地域社会の中心的な存在であり続けてきた。しかし近年では、生活様式の変化や経済的事情の影響を受け、その数は減少傾向にある。

かつて国内には約4万軒以上あったとされるパブも、2025年には1年間で360軒以上が閉店したという(*1)。人手不足や物価高騰などが影響し、その閉店ペースは加速している。こうした変化の背景には、飲酒文化そのものの変容もある。とくに若者を中心に、健康志向の高まりや経済的理由から「ソバーキュリアス」が進んでいる。

一方で、パブは時代に合わせて姿を変えてきた。1990年代以降に登場した「ガストロパブ(Gastropub)」では、飲酒よりも食事の質が重視されるようになり、パブの役割は大きく広がっていった。さらに、サッカーやラグビーの試合観戦、バンド演奏やライブ音楽、クイズ大会、世界各国の料理を楽しむイベントなど、多様な文化体験の場としても親しまれている。

パブの形は時代とともに変化している。それでも多くの人は、「行きつけ」の場所を求め続ける。それはパブが、単なる飲食の場ではなく、それぞれにとっての居心地のよい社会的な居場所であり続けているからだ。

イギリスのパブ文化が示しているのは、変化の激しい現代社会においても、人が安心して立ち寄ることのできる場所の重要性なのかもしれない。地域に根ざしたパブは、人々が肩書きや役割、立場から少し距離を置き、心を解きほぐしながら、誰かと「ゆるやかにつながる居場所」であり続けている。語ることも、聞くことも、ただ居ることも許される。そんな余白のある空間は、忙しい日々の中で、私たちの心をそっと休ませてくれるのかもしれない。

Edited by k.fukuda

注解・参考サイト

注解
※1 One pub a day closed permanently in England and Wales in 2025|The Guardian による。

参考サイト
public house|Britannica

The Great British Pub|Historic UK
パブ文化を見直すとき|公益財団法人 山梨総合研究所
ペスト(黒死病)がイギリスの「パブ文化」を育てた|GIGAZINE
ニューヨークタイムズ 世界の話題 パブのない英国なんて「社会の構造が変わる」は大げさではない|朝日新聞GLOBE+
パブの経営難が続き、集客にあの手この手(英国)変化する英国人の酒との付き合い方(2)|ジェトロ(日本貿易振興機構)

About the Writer

ともちん

大学で英文学を学び、小売・教育・製造業界を経てフリーライターに。留学や欧州ひとり旅を通じて「丁寧な暮らし」と「日本文化の価値」に触れ、その魅力を再認識。旅や地方創生、芸術、ライフスタイル分野に興味あり。言葉を通して、自尊心と幸福感を育めるような社会の実現に貢献することを目指している。
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