#12 わずか3%の淡水に生かされている、わたしたちの未来は

江戸時代から受け継がれてきた葉山の棚田

太陽を遮るものなど何ひとつない棚田を大きな黒い影が覆った。見上げると夏雲が気持ちよさそうに流れていた。雲がくれた日陰の涼しさで汗を拭う。鈴虫が鳴いている。吹き抜けていく風はもう秋だったけれど、灼けつくような陽射しには気候変動を象徴するような熱波が色濃く残っていた。

葉山の丘陵地帯である上山口には「にほんの里100選」にも選ばれた60枚ほどの棚田がある。江戸時代に開墾され、代々受け継がれてきた故郷の風景を未来に繋いでいくために今も地域の方々が汗を流している。

葉山の棚田に掲示されている看板を撮影した写真
葉山の棚田にある看板(筆者撮影)

人々の手で守られてきた里山の美しい風景を前に8年前、この棚田で稲刈りをしたときのことを思い返していた。今と同じくらいの時期――9月の半ば頃だった。今よりずっと涼しかった。

2025年夏、三浦半島だけ雨が降らなかった

「夏に田んぼの水が枯渇したせいで枯れちゃってる稲も結構あるんだけど」

軽トラでやってきた片山正徳さんがわたしの顔を見るなり言った。8年前、棚田での米作りをわたしに教えてくれた棚田耕作隊のリーダーだ。

「今年は暑さよりも水不足がどうしようもなかったね」

田植えが終わった後は田んぼに張った水が暑さで煮えてしまわないよう、棚田の上に広がる山から沢の水を水路で流し込もうとしていたが水源自体が干ばつで涸れてしまったという。

花が咲いて穂が出る8月はもっとも水を必要とするが、その時期にも田んぼの水が涸れてしまっていたのだそうだ。

「だって、2ヶ月以上雨が降らないんだもん」

県内では三浦半島だけ降水がないという日がたびたびあった。

「山向こうの横浜では結構な量が降っていた日もあったのにね」

気候変動による極端気象だ。暑さで地上の水分が短時間で厚い雨雲になるせいで、集中して降る場所と降らない場所が生まれる。高温に耐性のある品種改良は進んでいるが干ばつに強い稲はまだ研究途上だそうだ。

「ようやく降ったのは9月に入ってからの水がいらない時期だったでしょ? しかも雨量が多過ぎて稲が倒れちゃった」

稲架掛け(はさがけ)用に組まれた支柱の下では、大男の足に踏まれたかのように稲が斜めに倒れていた。

「去年は精米したら200㎏、三俵くらいあったんだけど、今年は去年の6割くらいかな。稲穂になってるけどちゃんと実が入っていないものもあるだろうし、陽射しが強くて米が渇いているから割れちゃうかもしれない。最後の最後までわからないよね」

気候変動による干ばつが農業――特に大量の水を必要とする稲作にどれほどの影響を与えているかを改めて実感させられた。

田んぼに給水車は、焼け石に水か

「田んぼが干上がった新潟で農水大臣が給水車で運んできた水を7万トン入る溜め池に入れていたのをニュースで見たけど、4,000リットル程度じゃ焼け石に水だって批判されてたよね」

10アール(100メートル×10メートルほど)の田んぼに必要な水量は約3,000トンとされている。それでもないよりはマシだと片山さんも軽トラにタンクを積んで水を運ぼうとしたそうだが、問題は肝心の水をどこから調達するかだったという。

「家の水道で汲んだらいくら掛かるんだろうって」

結局、自然の水源を探しているうちに時間切れになってしまった。同じように水源を探している農家が多かったのも一因だという。

「水戦争が始まってもおかしくない状況だったね」

農業において水が「天の恵み」と言われるのは無料の雨水か、安い農業用水を使用しているからでもある。仮に田んぼに水を張るのに水道水を使えばその莫大なコストは米の価格に上乗せされる。その場合の値上げ率は今の比ではないはずだ。

水の惑星でわたしたちの命を繋ぐのは、わずか3%の淡水

わたしの目の前にはいつも海が広がっている。そのせいで豊かな水の惑星で生きていると錯覚しがちだが、地球の表面を覆う水の約97%は海水なのだ。そのままでは農業にも使えないし、飲むことも生活用水にも使えない。わたしたちが命の水と呼べる淡水はわずか3%しかない。人間はその淡水を他の生き物たちと分かち合って生きている。

しかも、他の生き物が必要とするのが飲料水だけなのと違って、人間は農業を始め、工業や近年では再生可能エネルギーのひとつとして注目されているグリーン水素の生成など、多くの産業でその貴重な水資源を使っている。

また、農作物を始めとする多くを輸入に依存している日本は水資源の輸入大国でもある。外国の水源で汲まれたミネラルウォーターはもちろんのこと、バーチャルウォーター(仮想水)という概念もある。これは、たとえばアボカドを輸入することで、そのアボカドを育てるのに使われた水資源も間接的に輸入していることを意味する。水資源が枯渇している国から生産や加工に水を必要とする製品を輸入することは先進国による水資源の略奪だと批判する声も広がっている。

島国である日本にいるとなかなか気づかないが、気候変動による干ばつと人口爆発で世界で水不足が深刻化しているせいだ。水資源を巡る紛争も起きている。国土交通省によると、2050年には世界人口の40%以上にあたる39億人が深刻な水不足に陥ると予測されている。

気候変動による暑さでわたしたちはさらに水を必要としている

「7月に熱中症で倒れちゃってさ、一ヶ月くらい動けなかったんだよ」

片山さんが言った。気候変動による暑さから命を守るためにわたしたちは今まで以上の水分を必要としているのに、その水は気候変動が水の循環システムを狂わせているせいで、ある地域では不足している。

「熱中症は水不足じゃなくて、人手不足のせいでもあるんだけどね」

稲作の中でもとりわけ採算が合わない棚田では人手不足も深刻化している。農業機械が使える平野の田んぼと違い、江戸時代から変わらぬ手作業だ。また、資源を循環させることで環境を保全している里山の仕事は春の田植えと秋の稲刈りだけではない。夏に草刈りがあるのはもちろん、冬には稲藁を使って正月飾りなどを作ったりもしている。当然、次の田植えに向けた土作りや育苗もある。一年中仕事があるのが「にほんの里100選」に選定されている里山の棚田なのだ。

「そっちの棚田は96歳が現役でやってるよ」

片山さん自身も今年で72歳だ。水不足、人出不足、それがさらなる米不足へと繋がっていく。

”命の水”を持続可能に循環させていくには

気候変動によって水の循環システムが破壊されることが、わたしたちの暮らしに深刻な水不足をもたらしていく。太陽光や風力と違い、水は有限なのだ。海水を淡水化する研究も進んでいるが、わたしたちひとり一人の節水や産業界で使われている水の削減もすぐに大きな課題となるはずだ。水不足に悩む国から輸入大国であるわたしたちが限りある水資源をバーチャルウォーターとして奪わないために何をしていくべきかも。

先日、クロールを練習中の娘を市民プールに連れて行った。25mプールの水量は家庭用の浴槽4年分にあたる。棚田で片山さんの話を聞いた直後だったので公金で賄われているこの水を田んぼで使えはしなかったのだろうかと考えてしまった。そして、彼女が大人になる2040年もプールにはこんな風に水が張られているのだろうか、と。娘の未来にまたひとつ心配事が増えていく。

旅するように暮らす、この町で。

2025年9月17日

About the Writer

青葉 薫

横須賀市秋谷在住のライター。全国の生産者を取材した書籍「畑のうた 種蒔く旅人」を上梓。本名で放送作家/脚本家/ラジオパーソナリティーとしても活動。日本環境ジャーナリストの会会員/横須賀市都市計画審議委員/横須賀市環境審議委員/株式会社オフィスクレッシェンド取締役
この人が書いた記事の一覧

種蒔く旅人Ⅱ
~2040、未来の君へ~

文・写真 青葉薫

夕陽が海に沈む三浦半島・秋谷。

15年前に都会を離れ、
この海辺のまちで

「食べるものを育てる」暮らしを手に入れた。

#17 里山の生態系で外来種と正しく向き合うための科学と倫理
#17 里山の生態系で外来種と正しく向き合うための科学と倫理
Related Posts