
人間は、他者との関わりなしには生存できない社会的動物だ。しかし、皮肉なことに、その社会性こそが現代人の心を圧迫する最大の要因にもなっている。私たちは、家庭でも職場でもない「サードプレイス」を本能的に求める。その背景には、単なるリフレッシュを超えた、人間の心理的バランスをめぐる深い必然性が隠されている。
人は「つながり」と「距離」の両方を必要とする

人類が社会を形成した根本的な理由は、生存確率を高めるためだった。群れを作ることで外敵から身を守り、協力によって狩猟や採集の効率を上げる。その延長線上に、家族、共同体、国家といった社会構造が発展してきた。
しかし、集団生活には必ず役割の固定化が伴う。親、子、働き手、上司、部下といった役割は、社会を円滑に機能させる一方で、個人にとっては「期待され続ける存在」であることを意味する。
だが一人でいれば孤独に苛まれ、誰かと密着しすぎれば自由を奪われて息苦しさを感じる。この相反する欲求の板挟みこそが、人間の社会的ジレンマだ。完全な孤立も、過剰な一体化も、どちらも心身の健全さを損なう。そこで必要とされるのが、サードプレイスが提供する「適切な距離感のあるつながり」だ。
社会学者マーク・グラノヴェッターが提唱した「弱い紐帯(弱いつながり)」の理論は、この感覚を学術的に裏付けている。家族や職場のような強固な関係よりも、顔見知り程度の緩やかなつながりの方が、新しい情報や価値観をもたらし、個人の心理的自由度を高めることが示されている。
サードプレイスは、まさにこの「弱い紐帯」が集積する場所だ。そこには拒絶も過剰な干渉もなく、曖昧で柔らかな関係性が保たれている。その中空性こそが、個人の精神的独立を守る安全装置として機能しているのだ。
家と職場が担えない、サードプレイスの心理的な役割

私たちが日常の大半を過ごす二つの場所には、それぞれ強力な重力が働いている。
第一の場所である家庭には、愛情や安心がある一方で、親・配偶者・子としての責任が常に付きまとう。食事や片付けといった物理的なものだけでなく、気遣い、配慮、我慢、感情のコントロールといった「感情労働」も日常的に積み重なっていく。家庭は無条件に受け入れられる場であると同時に、献身が求められる「逃れられない私生活」の空間でもある。
第二の場所である職場や学校では、成果、評価、競争、責任が前面に出る。ここでは「何ができるか」「どれだけ価値を生み出すか」という機能的な尺度で測られる。役割を遂行することが最優先であり、個人の感情や事情は軽視されがちだ。立ち止まること、迷うこと、弱音を吐くことは、ときに非効率や甘えと見なされやすい。自分自身を守るために感情を抑え込み、仮面をかぶり続け、知らず知らずのうちに心の疲弊を招いていく。
これら二つの場所に共通するのは、「私たちは常に何者かでなければならない」という圧力だ。役割を演じ続けることは、社会的には必要不可欠だが、同時に自己のアイデンティティを少しずつ摩耗させていく。
サードプレイスの最大の効能は、この役割や属性を一時的に脱ぎ捨てられる点にある。行きつけのカフェの常連、趣味のサークルの一員、スポーツジムの顔見知り、あるいは匿名性の高いオンラインコミュニティの参加者。そこでは、年収も肩書も家庭内の立場も、ほとんど意味を持たない。「何者でもない自分」に戻れる時間があるからこそ、人は再び「役割のある日常」へと戻っていける。この役割の着脱こそが、心の回復を支える核心的なメカニズムなのである。
なぜ人は、第三の場所をつくり続けてきたのか

「サードプレイス」という言葉自体は、1980年代に社会学者レイ・オルデンバーグによって整理・命名された概念だ。しかし、その実体は人類史を通じて、形を変えながら常に存在してきた。
古代ギリシャには、政治や哲学を語り合う市民の広場「アゴラ」があった。それは家庭でも公務でもない、自由な議論と交流の場だった。17世紀ロンドンのコーヒーハウスは、「ペニー・ユニバーシティ(1ペニーで通える大学)」と呼ばれ、階級や職業を越えた知的交差点として機能した。
日本に目を向けても、縁側、井戸端、銭湯、居酒屋といった場所が、利害関係を超えた緩やかな交流の場として存在してきた。そこでは情報が交換され、愚痴がこぼされ、時に人生観や価値観が更新されていった。時代や文化を問わず自然発生してきたという事実は、サードプレイスが単なる娯楽ではなく、人間の精神を維持するためのインフラであることを示している。
サードプレイスを求める行為は、しばしば現実逃避や甘えと誤解されがちだ。しかし実際には、その逆である。重層化した役割や期待に押しつぶされそうになる「個」を守るための、きわめて合理的で健全な生存本能なのだ。サードプレイスを持つ人ほど、実は「どこにいても自分らしくいられる」という内面的な強さを育んでいる。家庭や職場という特定の場に過度に依存しすぎないからこそ、環境の変化や喪失にも折れにくい。
もし、あなたが今の生活に行き詰まりを感じているなら、それは努力や適応が足りないからではない。家庭でも職場でも役割を果たし続ける中で、「何者かである自分」を背負いすぎているだけかもしれない。人は、常に全力で社会に向き合い続けられる存在ではないのだ。
新しい目標を立てる必要も、大きな決断をする必要もない。ほんの少し肩の力が抜ける場所、名前や肩書を説明しなくて済む場所、沈黙すら許される場所を思い出してみてほしい。それがカフェの片隅でも、散歩道でも、趣味の集まりでも、オンラインの小さなコミュニティでも構わない。
サードプレイスは、人生を劇的に変える場所ではない。だが、壊れそうな心を壊さずに済ませるための、現実的で人間的な装置である。その「ゆるやかな居場所」を持つことは、弱さではなく、社会を生き抜くための人間の知恵なのだ。
Edited by k.fukuda
参考サイト
社会と経済(マーク・グラノヴェター 著)|ミネルヴァ書房
デザインセッション多摩2021サードプレイス|明星大学
「サードプレイス概念の拡張の検討―サービス供給主体としてのサードプレイスの可能性と課題」|石山恒貴(『日本労働研究雑誌』2021年7月号)






















夢野 なな
ライター、イラストレーター。芸術大学美術学科卒業。消費が多く騒々しい家族に翻弄されながらも、動植物と共存する生き方と精神的な豊かさを模索中。猫と海、本が好き。神奈川県の海に近い自然豊かな田舎で暮らす。創作に浸る時間が幸せ。
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