世界から学ぶ生活賃金──海外事例とその課題

物価高が続き、日々の暮らしに影響が出る中、日本では47都道府県すべてで地域別最低賃金が1,000円を超えた。生活に必要な最低水準が引き上げられたことは喜ばしい一方で、実質賃金は依然として世界水準に届いていない。いま世界では「最低賃金」ではなく、「生活賃金」を重視する国や企業が増えつつある。本記事では、海外の事例を通じて生活賃金の重要性と、その実現に向けた課題を考えていく。

生活賃金とSDGs──世界が共有する目標

物価高や格差の拡大により、「実質賃金」や「最低賃金」といった言葉を目にする機会が増えた。一方で、海外では「生活賃金」の導入や推奨を進める国際機関が増えつつある。いまや生活賃金は、世界が共有すべき目標の一つとして位置づけられている。本記事では、生活賃金がどのように国際的に広がってきたのかを紐解いてみよう。

最低賃金と生活賃金の歴史

生活賃金とは、労働者とその家族が十分な生活水準を維持するために必要な賃金を指す。その起源は産業革命期にさかのぼる。過酷な労働条件のもとで働く労働者が多かったことから、19世紀後半に「生活するのに最低限必要な賃金」という考え方が生まれたとされる。

20世紀に入ると、アメリカやイギリス、カナダなどで最低賃金制度が整備された。しかし20世紀後半にグローバル化が進むと、国際的なサプライチェーンにおける低賃金・長時間労働などの搾取的な労働環境が問題視され、世界的な課題となった。

こうした流れを受け、2013年に「世界生活賃金連合(GLWC)」が設立された。GLWCは生活賃金を「労働者とその家族が適正な生活水準を確保するために十分な報酬」と定義し、その中には食料、水、住居、教育、医療、交通、衣服など、生活に不可欠な要素が含まれるとしている。

世界が共有する目標としての生活賃金

2015年、国連サミットで「持続可能な開発目標(SDGs)」が採択された。生活賃金は、いくつかの目標と密接に関わっている。たとえば、

  • SDG1「貧困をなくそう」
  • SDG5「ジェンダー平等を実現しよう」
  • SDG8「働きがいも経済成長も」
  • SDG10「人や国の不平等をなくそう」

といった目標の達成には、生活賃金の実現が不可欠とされている。

さらに、2023年には国連グローバル・コンパクト(UNGC)が「生活賃金」を重点課題の一つとして位置づけ、「ジェンダー平等」「気候変動」「水」「サステナブル金融」と並ぶ5分野で企業に対して改善を促している。

つまり、生活賃金を満たすことは、貧困や格差の是正といった社会課題の解決に直結し、持続可能で包摂的な社会を実現するために欠かせない国際的目標なのだ。

生活賃金を導入するメリットとデメリット

生活賃金の導入には、多くのメリットがある一方で、課題やデメリットも存在する。ここでは、従業員側と、企業・社会側に分けて見ていく。

従業員にとってのメリット

生活賃金の導入は、賃金の上昇を意味するため、従業員にとってのメリットは大きい。

労働者自身とその家族が生活していけるだけの賃金が得られることで、生活の安定が図られ、貧困の削減にもつながる。
生活水準が向上する人が増えれば、社会全体の健康や教育、文化的充足度にも好影響を与えることが期待される。

企業・社会にとってのメリット

企業側は人件費負担が増えるものの、就労環境の改善や従業員満足度の向上を通じて、企業ブランドの強化が期待できる。

また、賃金の上昇によって消費活動が活発化すれば、社会的格差の縮小や経済の好循環につながる。

低賃金による生活不安や犯罪リスクの増大を防ぎ、持続可能で安定した社会の構築にも寄与するだろう。

課題は企業負担の増加と物価上昇の懸念

一方で、生活賃金の導入には課題も多い。

最大のネックは企業の負担増である。特に中小企業では、人件費の上昇分を価格に転嫁することが難しく、経営を圧迫する可能性がある。

また、賃金上昇が製品やサービスの価格に反映されれば、物価全体が上昇し、実質的な生活コストがさらに増す懸念もある。結果として、賃上げ効果が物価高に相殺されてしまうケースも想定される。

さらに、同じ仕事内容で給与が増えることにより、仕事へのモチベーションが一時的に低下する可能性も指摘されている。

加えて、扶養範囲内で働く労働者にとっては「年収の壁」により、働きたくても就労時間を増やせないといった新たな課題が生じることも考えられる。

生活賃金を推進する国際的な動き

「世界生活賃金連合(GLWC)」をはじめ、最低賃金や生活賃金の導入を推進する動きは、国際機関を中心に世界各地で活発化している。ここでは主な取り組みを紹介する。

世界生活賃金連合(GLWC)

GLWCは、生活賃金の定義づけや国際的な普及を目的として活動する国際的ネットワーク組織である。「Fairtrade International」や「Rainforest Alliance」などが主要メンバーとして参加している。

生活賃金の普及に向け、地域ごとに基準となる「生活賃金ベンチマーク」を開発。2025年10月時点で、アルゼンチン、中国、ドミニカ共和国など56か国において設定が進められている。(*1)このベンチマークは、各国の企業や労働団体が賃金水準を見直す際の重要な指標として活用されている。

国際労働機関(ILO)

国連の専門機関であるILOは、生活賃金を「労働者とその家族が健康で尊厳のある生活を送るために必要な収入」と定義している。

2023年の総会では「生活賃金に関する国際ガイドラインの策定」について議論が行われた。さらに、2025年4月には「国際労働組合総連合(ITUC)」および「国際経営者団体連盟(IOE)」と連携し、生活賃金の普及と実効性を高めるための国際プログラムを開始したことを発表している。

不平等・社会関連財務情報開示タスクフォース(TISFD)

TISFDは、不平等や社会課題に関する影響やリスクを企業が開示できる枠組みの構築を目的に、2024年に設立された国際タスクフォース(作業部会)である。

2026年末をめどに、企業がサプライチェーン全体の労働者に対して生活賃金を考慮しているかどうかを評価し、その情報を投資家などに開示するための国際的なガイドライン策定を目指している。

世界各国の生活賃金に関連する取り組み

世界各国では、生活賃金の導入やそれに関連する制度づくりが進められている。ここでは代表的な事例を見ていこう。

イギリス

イギリスでは、非営利団体「Living Wage Foundation」が「Living Wage 認証制度」を運営している。この制度は、生活に必要な費用(食費・住居費・交通費など)を考慮した生活賃金以上の賃金を従業員に支払うことを企業が約束し、その実施を認証する仕組みだ。

2025年時点で、約1万5,000の企業・団体が認証を取得しており、47万人以上の労働者が生活賃金の適用を受けているとされる。(*2)

この取り組みは、企業の社会的責任(CSR)やESG経営の一環としても注目されている。

アメリカ

アメリカでは1990年代に「生活賃金運動」が始まり、サンフランシスコ市、サンタフェ市、ワシントンD.C.など、多くの地方自治体が最低賃金ではなく生活賃金を基準とした条例を制定・導入してきた。

この運動を支援するため、マサチューセッツ工科大学(MIT)が開発したのが「MIT Living Wage Calculator(生活賃金計算機)」である。

このツールは、家族構成や居住地域などをもとに、生活賃金を地域ごとに算出・可視化しており、ウェブ上で公開されている。現在では政策立案や企業の人事制度設計にも広く活用されている。

EU(欧州連合)

EUでは、加盟国の労働者が適正な生活水準を維持できるようにするため、2022年に「EU最低賃金指令(Directive on Adequate Minimum Wages in the European Union)」を採択した。この指令により、各加盟国は2024年11月15日までに自国の国内法へ最低賃金に関する規定を反映させることが求められている。

最低賃金の水準を判断する際の参照値として、第5条では「賃金総額の中央値の60%」「賃金総額の平均値の50%」などが示されている。(*3)

この基準を踏まえ、2024年1月から2025年1月にかけて、法定最低賃金を設けているEU加盟国22か国のうち、キプロスやスペインを除くほとんどの国で最低賃金の引き上げが実施されたと報告されている。(*4)

まとめ

本記事では、生活賃金に関する世界各国の取り組みを紹介した。
海外では、生活賃金を支える仕組みや制度が整備されつつあり、日本が学ぶべき点も多い。
とはいえ、国際的に統一されたルールが確立するまでには、まだ時間を要するだろう。

一方で、日本での取り組みが海外に比べて遅れていることも否めない。最低賃金の引き上げが注目される中で、段階的にでも生活賃金に近づけていく取り組みが今後どのように進むのか、引き続き注視していく必要がある。

生活賃金の全面導入は容易ではないが、それに向けた努力こそが、労働者の生活水準の向上につながり、ひいては国民一人ひとりの豊かな暮らしを実現する道筋となるはずだ。。

Edited by c.lin

注解・参考サイト

注解
*1 「Global Living Wage Coalition(GLWC)」公式サイト参照(2025年10月22日時点)。
*2 「独立行政法人労働政策研究・研修機構「最低賃金、2025年4月より時給12.21ポンドに引き上げ」を参照。
*3 独立行政法人労働政策研究・研修機構「最賃委が新手続規則を公表―EU最賃指令に対応」を参照。
*4 独立行政法人労働政策研究・研修機構「2025年適用最賃の大幅引き上げにEU指令が影響か―最低賃金指令の概要とEurofoundレポート」を参照。

参考サイト
最低賃金の歴史|Manegy
生活費危機の時代に重要な「生活賃金」|大和総研
不平等・社会関連財務情報開示タスクフォース(TISFD)の構想と日本企業への示唆|大和総研
アメリカの「生活賃金」運動と「生活賃金計算機」|ジャパン・ソーシャル・イノベーション・フォーラム
【人権】世界で進む生活賃金(Living Wages)設定の取り組み〜最低賃金だけでは不十分〜|SustainableJapan

About the Writer
倉岡

倉岡 広之明

雑誌記者として活動した後、フリーライターとして独立。さまざまなジャンルの記事を執筆しているが、北海道で生まれ育ったこともあり、自然環境や気候変動、SDGs、エネルギー問題への関心が深い。現在は、住宅やまちづくり、社会問題、教育、近代史など、多岐にわたるテーマを手がけている。
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