第6回 バターをめぐる旅・取材後記|バターの魔力と牛

本連載では、生産者を訪ねる取材記事と、そこから広がる食卓での物語を交互にお届けしている。
前回、アドナイチーズ工房では、ケーキ作りに使う発酵バターを中心に取材を行った。
そして今回は取材後記として、バターと酪農の関わりを、ひとつの牧場の風景から見つめてみたい。
ー編集部よりー

いちごのショートケーキ6-1

ケーキを焼いているとき、ふと思ったのだ。
「この材料はたいてい北海道で揃うのでは?」
身近なところで、小麦粉や卵や乳製品が生産されていることに、なんだかワクワクしてきたのだった。

そこで、いちごのショートケーキができるまでの旅をすることにした。材料の生産者を訪ねてみよう。どんな人が、どうやって生産しているのか。全員の顔を思い浮かべながら、集めた材料で、最後にとびっきりのケーキを焼くつもりでいる。

さあ、一緒に出かけましょう。


前回、アドナイチーズ工房では、ケーキ作りに使う発酵バターを中心に取材をさせていただいた。バター作りには生乳が必要である。そこで取材後記としてバターと酪農の話をしよう。


猿払村の牧場にて

興部町のチーズ工房から、オホーツク海に沿ってさらに130kmほど北に行くと、猿払村がある。かつて20代の頃、私は猿払村の牧場で働いていたことがある。ある酪農家のもとで、搾乳、牛舎の掃除、給餌、牧草の収穫など、いろいろな作業に従事していた。

基本的に酪農家には休みがない。毎日、牛の世話と搾乳をしなければならないからだ。どうしても休みたいときは、酪農ヘルパーという制度を利用して、助っ人に頼んで代わりに作業をしてもらうことになる。

その酪農家は演歌歌手・藤あや子のファンであり、1年に1回か2回、彼女のコンサートに行くのを楽しみにしていた。

藤あや子の北海道公演の日程が近づいてきたある日、酪農家は私にたずねた。

「ヘルパーなしでできるか?」

つまり、私1人で半日、牛の世話と搾乳を切り盛りできるかという意味である。私の頭の中にあったのは「大変だ」という正直な気持ちと、もう一つは「信頼してもらっているのだな」という小さな誇りだった。

「大丈夫だと思います」と私は答えた。牛舎の掃除や給餌は問題ないのだが、やはり最大の山は搾乳だった。当時、その牧場で搾乳しなければならない牛は15頭ほどだったと思う。牛によって、気性が荒かったり、乳頭に傷があったりと、注意しなければならないことも多かった。

朝の搾乳は酪農家と一緒に行った。「じゃあよろしく頼むよ」と彼は嬉しそうに出かけて行った。夕方の搾乳は私一人きりだった。きちんと搾乳できなければ、牛たちは具合が悪くなってしまうのだ。必死になって搾乳し、ほとほと疲れたが何とかやり遂げた。このことは、今でも私の密かな自慢である。

酪農に関する原稿を書くとき、脳裏に浮かぶのは、あの牛舎での夕方の搾乳のことである。たった1回きりの経験だが、実は自分にとって大きな土台になっている気がする。

バターの魔力

さて、バターの話だ。バターには魔力がある。ありていに言えば、加えるだけで料理をおいしくしてしまうパワーを持っている。

例えば、炊き立てのご飯や、茹で上げスパゲッティに、バターと醤油をからめるだけで、あっけなく至福の一品にしてしまう。先日、ナポリタンを作った時にも、最後にのせたバターが大きな力を発揮してくれた。

いちごのショートケーキ6-5

クリームシチューもカレーも、バターと小麦粉をベースに作ると、ちゃんとそれに見あったおいしさになってくれる。

ところが近年は、バターが店頭になかったり、購入できる個数が制限されていたりすることが時々ある。私の記憶にある限りでは、食べ物が手に入りにくいという状況が発生したのは、災害や一時的なブームを除けば、米とバターくらいである。

なぜバター不足になったのか

そこで、バターはどうして品薄になったのかということを考えていきたい。バターの原料は、言うまでもなく生乳である。牛乳はそのままでは長期保存できない生鮮食品だ。一方、バターに加工すれば冷凍保存も可能である。

この特性の違いにより、バターは生乳の需給調整に使われてきた。

具体的には、次のようなことになる。

生乳は、生クリームと、生クリームを取り除いた残りである脱脂乳に分けられる。それらを加工してできるバターも脱脂粉乳も保存できる食品である。

生乳が消費量よりも多く生産された場合に、生クリームと脱脂粉乳に加工しておけば、廃棄せずに済むのだ。

作られたバターはもちろん、通常のバターとして流通させることもできる。あるいは、実はもうひとつ、元に戻すという選択肢もあるのだ。バターと脱脂粉乳に水を加えることで、牛乳に戻るのである。

もちろん、絞った生乳と全く同じものになるわけではないので、加工乳とか還元乳とか呼ばれるものになるのだが、これを生乳が不足する時期に活用すれば、需給調整がうまくいくという仕組みなのだ。

なんて人間は賢いのだろうと、素朴に思う。けれど現実社会においては、需給と供給のバランスを取るのは簡単なことではない。

需要と供給のバランスは難しい

日本の人口が減ったり、食生活のスタイルが変化したりと、さまざまな要因により、乳製品の消費量は減ってきた。また、酪農家の後継者不足により、牛乳生産の担い手も減ってきている。

それらの結果、1996年頃から生乳の生産量は減ってきた。生乳の生産量が少ないのであれば、バター生産に回される原料が減るため、とうとう2014年から2015年にかけて、バター不足になってしまったのである。

これでは困るということになり、政府は生乳増産に向けて、舵を切る。つまり、酪農家が乳牛を増やすことや、乳量が増えるように家畜を改良することに対しての予算をつけたのだ。政策は功を奏して、2019年、2020年と生乳生産量が増えた。

ところが、2020年に新型コロナウイルス感染症が蔓延し、学校給食などの需要が激減して、消費量が落ち込んでしまった。うまくいかないものである。

すると今度は、2023年に政府は、乳牛を早期に食肉にした場合に補助金を交付するなどの政策を打ち出した。つまり、乳牛を減らして、生乳の生産を減らそうというのだ。このように生乳の需給調整というものは難しいのである。

牛は生きている

需要と供給のバランスを取るのが難しい原因ははっきりしている。生乳は牛のお乳であり、牛は動物であるということに尽きる。

私たち人間は、哺乳類である牛が、子牛のために分泌する乳をいただいている。そのため、牛に種付けをして、その牛が出産した後でなければ、搾乳はできないのである。乳牛のメスが成長すれば、乳を出すわけではない。

子牛が生まれてから成長し、初出産するまでに2年半かかる。その後、300日くらい搾乳が続く。しかも並行して出産後40日〜60日くらいの間に、次の種付けがされる。

搾乳後、体を休めて、また出産。これが3〜4回繰り返されたのち、食肉などにされるというライフサイクルだ。

当たり前のことなのに、私たちはともすると、牛が生き物であるということを忘れてはいないだろうか。

増産だ減産だと言っても、策を講じてからその結果が出るまでには、どうしても3年ほどかかるのである。そして、その間に消費の状況は変わっていく。

酪農経営は綱渡り

それだけではない。生産状況だって変化していくのだ。近年、飼料価格の高騰に加えて、オスの子牛価格も下がっている。

乳牛が出産すると、当然、オスの子牛かメスの子牛が生まれる。基本的にメスは次世代の後継牛として、その牧場で育成される。

一方、オスの子牛は売られてよそに行く。肉牛として子牛を育てる「肥育農家」の元に行き、大きく育てられた後に肉牛として出荷されるのだ。

つまり、オスの子牛を販売した売上も、酪農経営における重要な収入源なのである。この子牛価格が下がると、酪農経営は厳しくなっていく。

ちなみに私が働いていた酪農家では、子牛がボーナスとなっていた。牧場で生まれた子牛を自分で購入する。餌代などは牧場主が持つが、世話は自分でする。成長して売りに出した際の、販売価格がボーナスとして自分のものになるというわけだった。当時はまだ、子牛価格は下がっていなかったのだ。おかげで酪農経営を身をもって知る機会になった。

このような綱渡りの経営を続けながら、政策にも大きく影響を受けて、牧場は運営されている。簡単に需給調整だとか、バター不足だから牛を増やせとか、言っていいものなのだろうかと、私は思う。

店頭にバターがあるかないかという末端の現場の問題だけではなく、その背後にある牛たちのことにまで想いを馳せてみる必要があるのではないか。バターをめぐる問題は、かくも簡単なことではないのである。

今日も明日も明後日も、日本中の乳牛が子牛を産み、酪農家は朝夕搾乳を欠かさない。いつでも牛乳やバターが手に入ることは、決して当たり前のことではない。そう考えると、バター醤油ご飯のおいしさは格別のものである。

About the Writer
林心平_横松心平

横松 心平

1972年東京都生まれ。札幌市在住。北海道大学入学後、北海道大学ヒグマ研究グループの一員になる。北海道大学大学院農学研究科修士課程修了。同博士課程中退後、農業団体や福祉施設の職員を経てライターに。農業、環境、子育て、ジェンダー、文学に関心があります。現在6冊目の著書の刊行準備中。
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いちごのショートケーキができるまで
〜生産者をめぐる旅〜

文・写真 横松心平

ケーキを焼いているとき、ふと思ったのだ。
「この材料はたいてい北海道で揃うのでは?」


身近なところで、

小麦粉や卵や乳製品が生産されていることに、
なんだかワクワクしてきたのだった。

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