#11 気候変動訴訟の憂鬱。本当の被害者は誰なのか

「干ばつで夏草すら伸びない」

2025年の夏も過去最高の暑さを記録したと報道されているが、三浦半島は去年よりも過ごしやすかった。東京よりも3℃から5℃涼しい。35℃を越えた日はなかったのではないだろうか。山の緑と冷たい親潮が流れ込むようになった海からの涼風に感謝しかない。

悩まされたのは干ばつだ。2025年の関東の梅雨明けは6月末だったと先日になって気象庁から発表があったが、そこから9月になるまで数えるほどしか雨が降らなかった。降っても土の表面が僅かに湿る程度だったし、もう3週間以上、一滴の雨も降っていない。

刈り取った草を置いているおかげで土にはわずかに湿り気が残っているがそろそろ草いきれの効果も切れそうだ。毎年手こずる夏草すら雨が少ないせいで伸びないのだ。むせ返るような夏草の匂いが恋しくなる。

去年は隆盛を極めた茄子も8 月に入ってからは水不足でほとんど実をつけていない。7月は高温障害でぶよぶよだった菜園のミニトマトは8月に入ってから実が膨らまなくなっている。水気がなくて皮が固い。加熱調理用のトマトみたいだ。

干ばつの恐ろしさを実感しながらも、それでも青かった実を赤く熟して必死で命を繋ごうとしているミニトマトの逞しさに胸が熱くなる。暑さと乾きで朦朧としている彼らの夢物語に浮かんでいるのは乾燥地帯である故郷のアンデスだろうか。

「小さくても、産んでくれるだけ有り難い」

週に一度卵を買いに行く養鶏農家でも話題は干ばつだ。

「雨が降らないから冬野菜が植えられないよ」とお母さんも溜め息をついている。干ばつで土が固くなっているので植えたところで根付かないのだ。今年も冬野菜の品薄と高騰を覚悟した方が良さそうだ。

「ニワトリさんたちは大丈夫ですか?」

「鶏舎が幾分高いところにあるからここよりは涼しいんだけど」と前置きした上でお母さんがまた溜め息をついた。

「卵がひと回り小さいんだよ」

いつも買っているMサイズの卵もSとまではいかずともひと回り小さい。

「それでも産んでくれるだけ有り難いよね」とお母さんは気丈に笑っていた。そう、ニワトリたちも激変する環境下でまた命を繋ぐために戦っているのだ。

「夜の涼しい時間にエサをやるようになった」

8月最後の週末、地元の牧場に娘とソフトクリームを食べに行った。神奈川県で一番おいしいと評判のソフトクリームだが、そもそも営業できているのだろうかという危惧があった。数日前から何度か電話をしていたが音信不通が続いていた。

乳牛はニワトリ以上に暑さに弱い。発汗による体温調節機能に限界がある牛の生育適温は20℃以下で、27℃を越えると暑熱によるストレスで乳成分も乳量も落ちる。心配だったが、牛舎の脇にある売店にはいつも通りの行列ができていた。

牛舎には遮光カーテンが掛かっていて中の様子は見えない。時折聞こえるはずの牛たちの鳴き声もなく、辺りには送風機のモーター音だけが響いていた。

「牛さんたちは大丈夫ですか?」とソフトクリームを絞り出しているお母さんに訊いた。

「自動エサやり機を入れたんですよ」と教えてくれた。暑い日中は食欲が落ちる。夜の涼しい時間にエサを食べさせることでなんとか栄養を確保しているのだという。鳴き声が聞こえないのは日中眠ることで体力を温存しているのかもしれないと思った。乳牛もまた子牛の命を繋ぐために乳を出している。だから限界を越える暑さの中でもがんばって乳を搾り出しているのだ。

わたしたちはそのお裾分けを頂いている。ソフトクリームには夏場で乳脂肪分が少ない分、さっぱりした甘味があった。

「みんな二等なら、一等と同じだよ!」

同じ8月末には南房総の田んぼから新米が届けられた。

「高温障害でよもやの二等米の判定を貰いました」とメールには綴られていた。

「くず米がかなり出たので嫌な予感はしていたのですが、思いっきりしょげています」と。

集落ではコシヒカリが二等米になる割合が高くなっているという。

「二等米って何? 二等賞ってこと?」と娘に訊かれた。

米は米粒全体に占める損傷粒や未熟粒、異物などの割合で一等米、二等米と品質を評価されている。見た目だけの評価のため、食味自体に大きな影響はないが価格には大きく響く。

「なーんだ。みんな二等なら一等と同じだよ」

娘が炊き立ての新米で握ったおむすびをおいしそうに頬張りながら言った。米も次世代に命を繋ぐために苛酷な環境下で稲穂をつけている。一等だの二等などとルッキズムで命に優劣をつけること自体が間違いのような気がした。

「いつまで食べられますか?」

2025年の夏、韓国では農業従事者たちが総発電量の95%を火力発電に依存する韓電とその発電子会社5社に訴訟を起こした。

「気候変動による猛暑で果物や米の収量が落ちている」というのが訴えの理由だ。慰謝料として提示した「2035ウォン(約217円)」には、「2040年までの脱石炭火力」という目標を前倒しし「2035年までに石炭火力を廃止して欲しい」という訴えが込められているという。

原告の農業従事者たちが掲げていた「いつまで食べられますか?」と書かれたプラカードには生産者である自分たちだけでなく、自分たちが栽培したものを食べているすべての消費者、すなわち電力事業者たちにも危機感を共有して欲しいという強い意志を感じた。

2015年のパリ協定以降、世界ではこうした気候変動訴訟が急増している。政府や企業に強い対策を求めるものや温室効果ガスの排出量に応じた損害賠償を求めているもの、人権侵害への対応を求めているものなど様々なケースがある。

環境先進国と言われるドイツやオランダでは原告である市民が政府に勝訴する判決も出ており、政府の対策を加速させる要因にもなっている。

三浦半島でも数年前、磯焼けで海藻やアワビなどの収量が激減した水産業者たちが声をあげた。横須賀市久里浜に新設される石炭火力発電所の環境影響評価をめぐって、国を相手取り訴訟を起こしたのである。注目していたが、「原告適格がない」として裁判所に訴えは退けられてしまった。これが前例となって地元には「気候変動は仕方ないと受け入れるしかない」という諦めのような空気が漂っているようにも感じている。

気候変動に対する危機感の薄さにじくじたる思いを抱く一方で、その判断にある種の安堵感を憶えたのも事実だ。

ひとつは被害者と加害者を明確にすることによる国内での分断を避けた点だ。気候変動訴訟には時に企業と市民、大人と若者などの間に分断を生み、互いを硬直化させてしまうリスクがある。

もうひとつは同じ国で生きている以上、訴えを起こす側も訴えられる側がCO2を排出して生み出しているものの恩恵を受けている可能性が高い点だ。そもそも日本では生産活動を行っていない子ども以外、大部分の大人が何らかの営みでCO2を排出している。

たとえば、水産業では漁船の燃料資源からCO2を排出しているし、ひとつの漁港だけで年間数十トンに及ぶ廃漁網は海洋プラスチック問題を生み出している。農業は耕すことで土の中の炭素を放出しているし、酪農業はCO2の30倍と言われている牛のゲップなどに起因するメタンガスの問題を抱えている。あらゆる産業が脱炭素化を目指して試行錯誤しているように火力発電所も2050年のカーボンニュートラルを目指して努力している。そして、それぞれの営みの恩恵を受けながらわたしたちは今日を生きている。

そんなひとつの国の中で被害者と加害者を明確に線引きすることなど本当にできるのだろうか。原告適格がないという裁判所の判断にはそんな難しさも感じたのだ。

「今日は原告でも明日には被告になっているかもしれない」

2025年の7月には国際司法裁判所が勧告的意見として「各国の政府が他国の気候変動による損害に対して責任を負う可能性がある」と示した。

今後CO2排出量の少ない途上国が次々に先進国を訴えるケースが増えるのではないかと言われている。

各国で大人世代を訴える若者団体が増えるのではないかと言われている。

気候変動訴訟に憂鬱さを憶えるのはそんな風に被害者だと思っていた側にもいつ加害者として訴えられるかわからないリスクがあることだ。

2040年に大人になる娘のために三浦半島の豊かな自然を残したいと考えているわたし自身、今もガソリン車に乗っていることで、近い将来、娘に訴えられる可能性がある。そのとき娘は自分がCO2を排出することで送り迎えされていたことをどんな風に感じるのだろうか。

だから、誰の営みも否定したくはない。誰も悪者にはしたくない。自分が悪者になりたくないだけなのかもしれないけれど、今は争っている場合ではないと声を大にして言いたい。食べるものもエネルギーも、そして文化もなければ、わたしたちは生きていけない。なくていいものなんてひとつもない。かといって互いに粗探しをして罵り合っている時間すら、わたしたちには残されていない。

本当の被害者は訴えることすらできないのかもしれない

そのことを再確認させられたのが、9月5日、三浦半島に降った3週間振りの雨だった。台風15号による60ミリ級の大雨だ。空は黒雲に覆われ、海は激しく荒れた。一日中、土砂災害警報が鳴り響き、実際に近くで土砂災害が発生した。

長期にわたる干ばつと、たった一日の災害級の大雨。気候学者たちが警告してきた極端気象がわたしたちの暮らしにおいても現実のものになっていることを改めて実感させられた。

争っている時間はない。今を生きるひとり一人が対話と共創によって地球の未来を気候変動から守っていく。人類に残された道はそれしかないのだ、と。これから生まれてくる人々から将来、気候変動訴訟を起こされることのないように。

3週間振りに雨が降った翌朝、菜園に台風の後片付けに行く。トマトは強風になぎ倒され、葉は潮を浴びたまま強い陽射しに灼かれていた。わたしはようやく気づいた。人類の営みによって本当に苦しめられているのは米でありトマトでありニワトリであり乳牛だ。苛酷な環境下でそれでも必死に命を繋ごうとしている彼らこそ気候変動の真の被害者なのかもしれない、と。そう、わたしはようやく気づいたのだ。本当の被害者はいつも訴えることすらできないところで泣いているのだということに。

旅するように暮らす、この町で。

2025年9月6日

About the Writer

青葉 薫

横須賀市秋谷在住のライター。全国の生産者を取材した書籍「畑のうた 種蒔く旅人」を上梓。本名で放送作家/脚本家/ラジオパーソナリティーとしても活動。日本環境ジャーナリストの会会員/横須賀市都市計画審議委員/横須賀市環境審議委員/株式会社オフィスクレッシェンド取締役
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種蒔く旅人Ⅱ
~2040、未来の君へ~

文・写真 青葉薫

夕陽が海に沈む三浦半島・秋谷。

15年前に都会を離れ、
この海辺のまちで

「食べるものを育てる」暮らしを手に入れた。

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