#6 娘におにぎりを残せるか。わたしたちのコメの現在地と未来予測

わたしが毎日食べているコメを育てている人たちのこと

三浦半島からフェリーで房総半島に渡るたびに近いなと感じる。乗船時間40分。体感的には東京よりも近い。

千葉県南房総市。一時期は毎週のように通って畑で汗を流していた。草むしりをしながら、かしこちゃんの言葉を聞くのが好きだった。かしこちゃんというのは、わたしの師匠である農業歴70年以上のおばあちゃんだ。

「戦争のときは大変だったんじゃないですか?」

「大人は戦争や工場に取られちゃったからね。田んぼも畑も子どものあたしがひとりでやってたよ」

当時は作物を政府に供出していたと社会科で習った。食べるものは配給制だったと。でも、かしこちゃんは笑っていた。

「うちにはコメも野菜もあったよ。何たって売るほどあったんだからね」

配給も食糧難もどうやら都市部だけの話らしい。敗戦直後には遠くから買い出しに来る人も少なくなかったという。また、南房総は漁師町でもある。浜では海藻や貝も採取できたそうだ。70年以上前の話なので確かなことはわからないが、少なくとも食べるものに困った記憶はないとかしこちゃんは話していた。

「ずっとこの田んぼのコメを買い支えるので、この先何があっても我が家の分は確保して貰えませんか?」

2009年、わたしはかしこちゃんの田んぼと定期購入の契約を結んだ。いつも食べさせてもらっているんだから田んぼも手伝いますと申し出たが「昔はやってたけど、今の田んぼは何もやることないのよ」と娘さんが教えてくれた。コメ作りは田植機やコンバインを持っている近所の人にお願いしていると。

棚田でのコメ作りを通じて学んだこと

生まれて初めて田んぼに入ったのは8年後の初夏。葉山の里山にある棚田でコメの作りボランティアに参加した年のことだ。昔は千枚棚と呼ばれていたが、担い手の高齢化と収益性の低さ、そして農業機械が入らないという地形的な問題で宅地化され、四十枚にまで減ったという。畑仕事ができなくなった地主さんの田んぼを借り、地元の有志団体がボランティアでコメ作りを続けていた。農業機械が入らない場所も多く、ほとんどが昔ながらの手作業だった。

初夏の太陽が容赦なく照りつけていた。水面に浮かぶ藻を掬い出してから、苗を手に踏み入っていく。泥の中にずぶずぶと沈んでは抜け出す感覚を確かめてから、腰を屈め、後退しながら三十センチ間隔に植えていく。二千年続けられて来た「コメ」という命を繋ぐ触媒になったような神聖な気持ちになった。

一列植えたところで腰を伸ばし、夏空を見上げる。汗を拭い、腰に下げた麦茶を飲む。陽射しは相変わらず強かったけれど、体感的にはさっきほどじゃない。足にまとわりつく泥水が冷却装置となって体温を下げてくれていたのに気づいた。これなら炎天下でも作業が続けられそうだ。弥生人が試行錯誤の末に完成させた「水田」の機能性に感心した。吹き下ろす風に植えたばかりの苗がさらさらと揺れていた。

夏には膝まで田んぼに浸かって、肘まである手袋で草刈りをした。雑草や害虫を食べて貰うためにカモを泳がせているので素手だと痒くなる。それでも土の栄養を稲に回す為には草刈りが欠かせなかった。

秋の稲刈りは力仕事だった。水を抜いて土がひび割れるまで乾いていたはずが、台風による大雨で再びぬかるんでいる場所もあった。鍬を手にひと束ずつ握って刈り取りながら前に進む。稲藁で束ね、稲架掛けして、3週間ほど天日でゆっくりと自然乾燥させる。

棚田の一角に稲架掛けされた美しい黄金色を見上げる。稲作の経験がない人も含めて、多くの日本人が懐かしいと感じる風景だという。

「この美しい風景を守るために汗をかいてるんだ」と耕作隊のリーダーが満足そうに言った。

食べる為に参加した棚田でのコメ作りで学んだのは棚田が持つ多面的な機能だった。棚田は食料生産の場であると同時に、多様な生物の住処だった。雨水を保水することで洪水を防ぐ緑のダムだった。そして、長年に渡って保全されてきた景観でもあった。

 この棚田は環境省の「生物多様性保全上重要な里地里山」にも選定されている。

2025年、日本のコメ作りの現在地

5月の連休明けに南房総の田んぼを訪れた。定期購入を始めて16年。今はかしこちゃんの孫である司さんが畑とともに受け継いでいる。

「この辺はどこも暑さで収量が落ちてますよ。うちも昨年より100㎏近く減ったんじゃないかな」

昨今の気候変動によるコメ作りへの影響を聞くとそんな答えが返ってきた。

「市場ではコメの値段が高騰してるけど、今のままの値段でやっていける?」

わたしは心配していたことを聞いた。すると、「もともとが高いですからね」と司さんは笑っていた。

わたしは1㎏700円ほどでかしこちゃんの田んぼのコメを買い続けてきた。農業が続けられる適正価格で買い続けることで、こちらも食べ続けることができるというフェアトレードの精神によるものだ。

「周りは今1㎏800円とか1000円になってるけど、うちは元が高いから特に値上げしなくても大丈夫かなって。今年も暑さ次第でどうなるかわからないけど品種はコシヒカリから変えていない」

化成肥料は使わず、鶏糞堆肥、牡蠣殻石灰、米ぬかを肥料にしている司さんのコメは、年々暑くなる中でも等級検査で最高品質の一等米を維持し続けている。

「困ってるのは年を重ねて体が動かないからってやめる人が増えてることですね」

2020年の農水省の統計によると国内の稲作農家の58.9%は70代以上。次いで多い60代の29.8%を合わせると国内でコメを生産している88.7%が60代以上。わたしたちが毎日食べているコメは高齢者の労働によって支えられている。

司さんの話では、トラクター、田植え機、コンバイン、乾燥機、籾摺り機と、コメ作りに必要な機械をすべて持っているのは集落で2軒だけ。田んぼはあるが、農業機械は揃っていない人がほとんど。それぞれの機械を持っている人が作業を請け負い合うことで集落の田んぼは守られているという。

「2年前に田植えを頼んでいた人が病気で倒れたときに慌てて中古の田植機を4万円で払い下げて貰ったんです」

司さんも稲刈りと乾燥、籾摺りを機械を持っている人にお願いしている一方、親戚の田んぼの田植えを請け負ったり、繁忙期にはカーネーションの出荷作業を手伝ったりと、集落の人たちと支え合ってコメ作りを営んでいるという。

「うちが稲刈りをお願いしているのは60代の人ですけど、そもそも田んぼをやっている人の多くは80代、中には90代の人が田起こしや代掻きをやっているところもありますからね」

しかも多くの人は既に引退して今は農家ですらないのだという。

「みんな田んぼがあるからやっているだけなんですよ」

「やれやれ」というニュアンスもあったが、言葉の奥にはボランティアで棚田を守っている人たちと同じ、いや、先祖代々受け継がれたものに対する責任がある分、さらに強い想いを感じた。

田んぼはコメを栽培するだけの場ではない。生物多様性の維持や環境保全など多面的な機能がある。それを誰よりも知っているからこそ、田んぼを持っている人たちは時に経済合理性を度外視してでもコメを作り続けてきたのだ。二千年前から受け継がれてきた大切なものを未来に受け継いでいくために。

とはいえ、あと何年この互助システムで続けられるのだろう。かといって小規模な農家が田んぼを維持していく為に機械をすべて揃えるのは不可能に近い。少なくとも収入が今のままでは。

「コンバインなんて年に数回しか使わないのに二千万もしますからね」

2040年のコメ作りを想像する

気候変動の影響も深刻化している。田んぼには水を張ることで夏の暑さをやわらげる機能もあるが、今年はザリガニが茹で上がるほど水温が上昇している田んぼもあるという。大規模化と単一作物化を進めたことで多様性の中ではそれほど目立たなかった虫が大量に発生するという事態が畑で起きているように、田んぼにもイネカメムシが増えている。

遮光効果もあるソーラーシェアリングで売電収入を得ながら稲作を持続可能なものにしていくという取り組みも広がっている。高温多湿に負けない品種の開発も始まっている。一方でいずれジャポニカ米は育てられなくなるのではないかと、インディカ米の栽培に取り組み始めている人もいる。

「日本で穫れるコメが粘り気のないインディカ米ばかりになったら、おにぎりは食べられなくなるかもしれないね」と娘と話した。

「おにぎりが食べられなくなったら困る!」

 離乳食のときから、かしこちゃんのコシヒカリで育った娘はおにぎりが大好きだ。

その娘が、今年生まれて初めて田植えをした。県内一位の生産量を誇る平塚市の田んぼで同世代の子どもたちと共に。泥だらけになりながら夢中になって田植えをする子どもたちの姿を見ながら、かつてはコメも子どもも泥の中で育ってきたという話を思い出していた。泥んこ遊びが子どもの五感を刺激し、想像力や創造力を育んだり、免疫力を高めたりしてくれていたと。そう、娘がやっているように集落の人が総出で田植えをしていた時代には。

多くの日本人が農村を捨てて都会に働きに出た1960年代に生まれたわたしは高度経済成長期の社会で田んぼを知らずに育った。田植機やコンバインが相次いで開発されたおかげで、わたしたちはずっと消費者でいられた。

多くの日本人が田んぼを離れて、60年余りが過ぎた。今起きているコメ問題はその報いでもあるような気がしてならない。だからこそ、ひとり一人が毎日食べているコメを、誰がどこでどんな風に、そしてどんな思いで育てているのかを知ることに解決の糸口があるのかもしれないと感じている。「コメ作りの現在地」を正しく知ること。風評に惑わされないこと。最近は娘が参加したように、子どものためのコメ作り体験のようなものも各地で開催されている。そういうものを入り口にして、田んぼに足を運び、今何が起きているのかを自分の目で確かめることが、最初の一歩なのではないだろうか、と。

どんなに時代が変わっても、人の暮らしや価値観が変わっても、二千年前の田園風景が今もこうして守られているのは、それがわたしたちのDNAに刻まれた記憶だからなのかもしれない。その証拠に田んぼにいると、過去に戻ったのか、未来に進んだのかがわからなくなる。わたしにとって田んぼは時空を越えられるタイムマシンだった。

今年、わたしの家ではお裾分けして頂いた稲がバケツの田んぼで潮風に揺れている。稲の生育を毎日見つめ続けることで、また新たな発見があるのではないかと胸躍らせている。収穫したコメで大好きなおにぎりを作るのを楽しみにしている娘とともに。

旅するように暮らす、この町で。

2025年6月20日

About the Writer

青葉 薫

横須賀市秋谷在住のライター。全国の生産者を取材した書籍「畑のうた 種蒔く旅人」を上梓。本名で放送作家/脚本家/ラジオパーソナリティーとしても活動。日本環境ジャーナリストの会会員/横須賀市都市計画審議委員/横須賀市環境審議委員/株式会社オフィスクレッシェンド取締役
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種蒔く旅人Ⅱ
~2040、未来の君へ~

文・写真 青葉薫

夕陽が海に沈む三浦半島・秋谷。

15年前に都会を離れ、
この海辺のまちで

「食べるものを育てる」暮らしを手に入れた。

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