スマホ世代が失った深い対話。フランス・サロン文化に学ぶ「語り合い」の価値

SNSが登場して以来、私たちは情報の取り方もコミュニケーションの仕方も大きく変化した。チャットでのやりとりが当たり前となり、交わす言葉もどんどん短縮されている。若者の間では、「ま?(マジ?の意)」や「り。(了解の意)」といったように、一文字でやりとりすることも少なくないようだ。スタンプやリアクションなど、もはや文字すら使わないコミュニケーションも増えている。

街中では、カフェで同じテーブルに座っている友人同士が全員スマートフォンを操作している様子もよく見られる。そのような光景を見て「顔を見ながらの会話」はしないのだろうかと不思議に思った人もいるかもしれない。

さまざまなチャットツールが登場したことで、私たちのコミュニケーション方法は豊かになった。LINE、XやInstgramなどのダイレクトメール機能などを使い、いつでもどこでも誰とでも気軽にメッセージのやりとりができるようになり、十数年前のことを思えば格段に利便性が向上している。

しかし、コミュニケーションツールが多様化するのと同時に「誰かと何かを語る」という機会がだんだん減ってきたように感じられることはないだろうか。

顔を合わせて話すことは、言語以外の情報(目線や仕草、声のトーンなど)を得ることができるため、信頼関係を築きやすいと言われている。多くの人がSNSで気軽な会話を楽しむ一方、コロナ禍でほぼ強制的に対面交流を絶たれた時期を経て、顔を合わせてしっかり語り合うことの楽しさや大切さも改めて注目されているのだ。

人類の歴史の中には「語り合い」を楽しみ、それによって社会を変えた出来事がある。それが、18世紀フランスの「サロン文化」だ。ここでは、社交場として発展したサロン文化の歴史に触れながら、語り合うことの重要性や可能性、また人々がどのように語り合うことを楽しんできたのかを見ていきたい。

社交場としてのサロン文化

社交場としてのサロン文化

サロンとは、17世紀のフランスで始まった社交の場のことである。元々は貴族の女性の間で生まれたものだったが、ブルジョワジー(中産階級)にも広がったことで、18世紀には文化や芸術の発信地となった。

長く苦しい宗教戦争が続いていたアンリ4世の時代は、宮廷内での暗殺や決闘が日常的に行われていた。しかし17世紀に入り、ルイ13世の時代になると、血生臭いアンリ4世の宮廷は無骨で粗野なものとして避けられるようになり、反対に丁寧で洗練されたものが貴族たちの間で評価され、求められるようになった。

この時代の変化の中で、17世紀初めにランブイエ侯爵夫人のカトリーヌ=ド=ヴィヴォンヌによってサロン文化が生まれたといわれている。カトリーヌはローマに駐在する外交官の娘として経験した、イタリアの洗練された社交場をフランスに持ち込んだものだ。自宅に教養のある人々を招き、主に文学や演劇について語る私的な社交場として発展し、これを模したサロンが次々と開かれるようになった。

「変革の源泉」として注目されたサロンの力

ヴェルサイユ宮殿などで開かれていた文学サロンは女主人(サロニエール)が中心となっており、ラファイエット夫人やポンパドール夫人の名は、耳にしたことがある人も多いだろう。こうしたサロンには、啓蒙思想で知られるヴォルテールやルソー、モンテスキューらも出入りしていたという。

文化人や学者、作家らが参加し、「知の交流会」とも言えるサロンは、初めこそ「気取ったもの」として時に痛烈な皮肉を受けることがあったものの、社会が大きく変化する中で「議論の場」として発展することとなる。文学や演劇、音楽など芸術の分野だけではなく、哲学や政治、科学について語られることが増えたからだ。

さまざまな話題に花を咲かせる中で新しい価値観や思想、文化が生まれることは、現代の私たちにとっても想像に難くない。まさに最先端の思想に触れられる憧れの場だったのだ。その後、ドイツやスイスなどでもサロンが開かれるようになる。

絶対王政下で、古い身分制度によって苦しんでいた民衆たちが立ち上がり、自由・平等・国民主権が謳われた人権宣言が制定されたフランス革命をはじめ、その後のフランスでは社会と政治の構造に大きな変化が起きている。

サロン文化は、革命やナポレオン戦争によって凋落していくが、これはサロンが「危険な思想を生む場所」として恐れられたことが理由とされる。言論討議が行われるサロンは特に危険視されたようだ。まるでサロンでの議論が「革命を起こすほど力を持っている」ということを示唆しているようではないか。活発に交わされる「語り合い」には、社会全体を動かす強いパワーが宿るのだろう。

「語り合い」で社会を変えていく

「語り合い」で社会を変えていく

自分の意見を言ったり、他者の意見に耳を傾けるというのは「対話」の訓練として非常に有効なものだ。なぜなら対話は、現代に見られる「論破」のような攻撃的なものではなく、理解しようという姿勢が前提としてあるからだ。

昨今のSNSでの炎上や暴力・殺人事件の動機でしばしば見られるように、自分が信じる正しさこそが正義だと思い込み、理解しようともせず「正しさのぶつけ合い」になってしまう例も少なくない。しかしその裏には、「自分の気持ちは誰にも分かってもらえない」という不満や鬱憤が積み重なっている可能性もある。そこで「語り合い」の登場だ。

誰かが自分の意見に耳を傾けてくれる経験は、「分かってもらえた」「聞いてくれた」という喜びを生む。安心して語ることのできる場というのは、心理的な安全性を与えてくれる場と言い換えることもできる。そうした場に腰を据えることで、ようやく人は「自分はこう思う」「あなたはどうだろうか?」という落ち着いた語り合いを進めることができるのだ。

人々の議論が活発になるほど、山積みになった社会問題の解決策が多数生まれる。日本中、そして世界中で同じ共通認識を持ち、どうすれば平和が維持できるか、私たちの生活が保障されるか、地球上の生物や環境が守られるか。さまざまな意見を交わしながら、問題を解決しなければいけない、語り合いをしなければいけない時代だ。いまこそ誰かと語り合おう

現代では人の価値観や思想は多様化し、社会の変化が早すぎて一年前と同じ考え方では「もう古い」と言われることもある上、家に一人でいてもさまざまな情報が得られる。そのような状況では、自分の考えを相手に伝えて議論を交わすことに、何のメリットもないと思う人もいるかもしれない。

たしかに、誰かが持つ価値観や思想を「情報」として手に入れるのであれば、現代は非常に恵まれた時代だ。一方で、顔を合わせてしっかりと話すことは、相手が持つ価値観だけでなく、その裏にある本当の望みやバックグラウンドを知るきっかけにもなる。互いに納得がいくまで話の内容を深めていくことで、双方が思い至らなかった「第三の意見」が生まれることもあるだろう。語り合いとは、単なる「話す」「聞く」という一方向のコミュニケーションではないのだ。

発展するコミュニケーションツールは便利であるものの、即時的で断片化する会話によって、関係性が希薄になりやすいという危険もはらんでいる。「否定されたくない」「傷つきたくない」「時間の無駄」「面倒くさい」という思いは、私たちに人との議論を避けるよう働きかける。しかし、本当の意味での価値観や思想の転換は、無駄と思われるほど長い時間をかけて咀嚼し、消化する過程で生まれるものだ。

最近頭が凝り固まっている、周囲の人と無難で内容の薄い会話しかしていないと思ったら、サロンと言わずとも「小さなお茶会」などを開き、誰かとじっくり語り合う時間を過ごしてみてはどうだろうか。

Edited by s.akiyoshi

参考サイト

あなたは対面派?非対面派?│コラム│CASIO
第3章-2 サロンの流行 | ピティナ調査・研究
18世紀フランスの文芸サロン|小井戸光彦|茨城大学学術情報リポジトリ

About the Writer
秋吉紗花

秋吉 紗花

大学では日本文学を専攻し、常々「人が善く生きるとは何か」について考えている。哲学、歴史を学ぶことが好き。食べることも大好きで、一次産業や食品ロス問題にも関心を持つ。さまざまな事例から、現代を生きるヒントを見出せるような記事を執筆していきたい。この人が書いた記事の一覧

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