
奈良県天理市で2022年8月にスタートした地域通貨「イチカ」が、単なる経済対策の枠を超えた新たな地域コミュニティの形成に挑戦している。コロナ禍で人と人のつながりが希薄になる中、「支え合い」を軸にしたこの取り組みは、全国の自治体からも注目を集めている。
地域のつながりを育むデジタル通貨「イチカ」
イチカ事業の発端は、ある駄菓子屋の小さな取り組みにあった。奈良県生駒市のチロル堂では、こども達はカプセル自動販売機を回すことができる。機械を回すと、店内で飲食やお菓子の購入に使えるポイントがもらえる仕組みだ。この機械を回すための費用は、大人が飲食した際に支払った金額の一部でまかなわれている。つまり、お店の売上の一部を子どもたちに還元する取り組みである。
この光景を目にした市長が「天理市でもこのような取り組みができないか」と考えたことが、イチカ事業の出発点となった。また天理市櫟本町で、子どもたちの夢を応援するプロジェクトを行っている地域塾の活動も参考にし、このような助け合いやつながりに関する取り組みを、デジタル地域通貨を使って市全体で展開できないかという構想が生まれた。
天理市は、「デジタルなのに、なんだかふつうのお金よりもあたたかい。使うたびに身近な人の暮らしやお店を元気にできるし、『自分たちのまちを良くしよう』と活動している人を応援することだってできる」と表現し、単なる決済手段を超えた地域のつながりに関する理念がある。「イチカ」という名前には、天理という市全体をぐるぐる駆けめぐることで、みんなの想いを一手に集め、未来をつくる力を育んでいくという願いが込められている。

2022年、まさにコロナ禍の真っ只中でイチカ事業は始動した。人と人のつながりが希薄になっていた時期でもあり、国の補助金を活用し、デジタルポイントの配布やプレミアム付イチカチャージカードを販売することで、市民の相互支援をサポートすることが期待された。目的は明確で、地域のつながりをつくり、地域活動をされている方々の支え合い活動につなげることである。
「『デジタル通貨』って何?という方も多く、周知活動には苦労した。店舗にも加盟店になってもらえるよう仕組みや意義を説明し、市民の方にもデジタル通貨について説明する必要があった」と市民総活躍推進課の担当者は当時を振り返る。
しかし、3年が経過した現在では、「またポイント配布が来た」ということが周知されており、市民の理解は格段に深まっているという。現在、アプリのダウンロード数は約32,000件に達し、人口約6万人の天理市において相当な普及を見せている。
イチカとイチカプラスの仕組み。支え合いを可視化する
イチカ事業の核心は、単純なポイント配布にとどまらない「イチカプラス」という仕組みにある。イチカは通常の地域通貨として加盟店舗で使用できるが、イチカプラス加盟店では、イチカでの売り上げの一部を市内のこども食堂やスポーツ少年団などに寄付する仕組みが組み込まれている。
「消費された『イチカポイント』で地域活動を支援」として、「天理市内のお店やサービスで使用された『イチカポイント』の一部を、こども食堂やフードバンク等の支援などに充てることで、みんなが『イチカポイント』を使うほど支え合い活動に還元されていくような循環を生み出す」のだ。
担当者はその意義を「例えば、○○野球少年団を応援したいけど、応援の仕方がわからないという人がいたとしても、その野球少年団への寄付を行っている商店で買い物をすることで、間接的にその野球少年団のサポートをすることができる。また、こども食堂を応援したいが、体力的に直接の手伝いが難しい人にとっても、イチカプラス加盟店の利用は有効だ」と説明する。
現在、約400の加盟店のうち、イチカプラス対応店舗は69店舗となっている。加盟店の条件は小規模店舗であることと定められており、業種ごとに定められた従業員数や資本金などの基準を下回る事業者に限定している。これにより、大手チェーン店ではなく地域の個人経営店舗が中心となる構造を維持している。
デジタル地域通貨の導入により、市民の方に給付金を交付する事業や紙のプレミアム付商品券を販売する事業と比較して大幅な効率化が実現された。市民の手元に届くまでの時間が短縮され、コロナ禍においてもこのスピード感は有効に作用した。
利用方法はシンプルで、専用のスマートフォンアプリ「prairie(プレーリー)」を使用し、二次元コードを読み取ることでアプリの中にポイントが入る仕組みとなっている。「イチカ」1ポイントは1円として利用でき、天理市の梅の花をモチーフにしたロゴマークのステッカーやのぼりのあるお店が利用可能店舗の目印となっている。

配布例として、市内約6万人の市民に1人2,000ポイント(中学生以下の子ども1人あたり+3,000ポイント)を配布するなど、子育て世帯への物価高騰対策としても機能している。現金やギフトカードなどの交付の場合、市外で消費される可能性があるが、イチカは確実に地元で消費される。決済から店舗への支払いまでのサイクルは月2回と、一般的なクレジット決済よりも頻度が高く設定されており、小規模店舗の資金繰りに配慮した仕組みにもなっている。
現場で見えてきた効果。導入店舗の声から
天理駅前にある天理本通り商店街のさわむら履物店では、イチカの導入により高齢者の外出促進という思わぬ効果を実感している。イチカプラス加盟店でもある同店の店主は「高齢の方がチケットを持って買いに来てくれるんです。いい制度ですよ」と語る。「若い夫婦が親にイチカ券を渡すこともあります」。デジタルから紙への変換も可能なイチカの仕組みにより、高齢者でもアクセスしやすくなっている。「現金だと預金されてしまいがちですが、イチカなら期限があるので買い物に行くきっかけになっています」。また、「手数料が無料なのもありがたい」とし、小規模店舗にとってのメリットも大きいという。
「大型店舗に行ってしまいがちですが、イチカは大型店舗を禁止にしているので、地元商店に来るきっかけになっているのではないでしょうか」。地域経済の循環という本来の目的が、現場でもその効果が実感されている。

市内中心部に店舗を構える菓子工房マリアージュは、イチカプラス加盟店としてこども食堂への寄付を行っている。寄付先を「こども食堂」という大きなカテゴリーに設定している理由について、店主の乾さんは「特定の団体にしていない理由は、寄付金が一部に偏らないようにするため」と説明する。
イチカ導入のきっかけについては、「市の思いへの共感が大きかった」と振り返る。「コロナ禍ではクーポンを配布するなどしていて、取り組みに強く共感しました」。単なる経済対策ではなく、支え合いという理念に賛同したことが参加の動機となった。
実際の利用状況についても手応えを感じている。「毎日のように誰かしらがイチカを利用しています。現金と異なり、期限があるのがいい」と期限設定の効果を評価する。
また、イチカを通じて事業者間のネットワーク形成についても意義を感じているという。単なる決済手段を超えた地域コミュニティ形成の側面を実感している。

イチカプラスの支援先は、野球少年団、ラグビーチーム、柔道部、いちょう体操愛好会、こども食堂、フードバンクなど、スポーツから福祉まで幅広い分野にわたっている。特に天理市はスポーツが盛んな土地柄もあり、スポーツ関連の支援が多く見られるのが特徴的だ。
例えば、天理中学校の柔道部にピンポイントで寄付を行う店舗や、地元の野球少年団を支援するスポーツ用品店など、店舗ごとの色が明確に出ている。ラグビー用品店がラグビーチームを支援するなど、事業内容と支援先の関連性が見られる例もある。
2023年度には支援元と支援先が一堂に会する報告会が開催された。「野球のライン引き機の購入に使いました。今まで薄いラインだったのがくっきりしたライン引きができるようになった」など、具体的で身近な報告が行われ、参加者から好評を得た。
持続可能な地域通貨への挑戦
イチカの導入により、店舗の活性化効果も確認されている。特に子育て世帯への配布により、従来の電子決済では飲食店での利用が多かったものが、イチカでは子どもの制服を販売する店舗や楽器店などにも広がりを見せている。行政側では、毎月の加盟店売上分の換金額を把握できるため、どのような店舗でどの程度利用されているかが可視化されている。これにより、政策の効果測定や市民の消費動向の分析が可能となっている。
一方で、普及には課題もある。初めてポイント配布を行った際、全市民にデジタルポイントで配布したところ、紙クーポンの交換希望者と、アプリの使用方法の問い合わせを行いたい人が多数来訪し、数週間にわたって混雑が続いた。この経験から、65歳以上の人は紙クーポンへの交換希望が多いことがわかったため、現在は65歳以上の人には紙クーポン、65歳未満の人にはデジタルポイントを配布する方法に変更している。ただし、65歳以上の人もデジタルポイントを選択することは可能である。
また、「民間のデジタル決済サービスとは異なる付加価値で市民により深く理解してもらいたい」と担当者は語る。利便性だけでなく、支え合いという理念をいかに浸透させるかが継続的な課題となっている。
現在の課題は、システム運営にかかる費用をどのように最適化し、長期的に継続可能な体制を構築していくかということだ。対策として、天理市を訪れる観光客への展開も検討されている。大学との連携によるツアーの参加特典にイチカを含めるなど、来訪者にアプリをダウンロードしてもらい、地元店舗での消費につなげる取り組みが進められている。

着実に市内に浸透してきたイチカの今後について、「イチカプラス店舗がもっと増えて、ユーザーの中でイチカプラスを知って店選びをする人が増えることで、助け合いの輪が広がっていけばいい」「市外から来られた人にも周知できれば、より多くの人の支援を集めることができる」との思いが語られた。
コロナ禍で多くの自治体がデジタル地域通貨を導入したが、全国的な導入拡大の一方で、継続性という観点では課題を抱える自治体も多い。そうした中で、天理市のイチカは単なる経済対策を超えた「支え合い」という明確な価値観を軸に据えることで、持続可能な地域通貨の新しいモデルを提示している。
他の自治体からの視察も増えており、地域通貨の導入を検討する自治体にとって重要な参考事例となるだろう。駄菓子屋の小さな取り組みから始まったこの構想は、今や市全体を巻き込んだ支え合いのプラットフォームへと発展し、デジタル化が進む現代社会における地方自治体の新たな役割を示している。
参考記事
イチカ|天理市
この記事を書いた人

k.fukuda
大学で国際コミュニケーション学を専攻。これまで世界60か国をバックパッカーとして旅してきた。多様な価値観や考え方に触れ、固定観念を持たないように心がけている。関心のあるテーマは、ウェルビーイング、地方創生、多様性、食。趣味は、旅、サッカー観戦、読書、ウクレレ。
関 連 記 事

里山資本主義とは?お金だけに依存しない持続可能な社会の実現を目指す
「里山資本主義」は藻谷とNHK広島取材班による造語であり、「マネー資本主義」の対義語として作られた言葉および思想だ。 地域に存在する自然資源や人間関係を活用し、地域内で資源やお金を循環させる…続きを読む

トランジションタウンとは?世界での取り組み事例などを紹介
トランジションタウンは、パーマカルチャーの理論をもとに、持続可能な環境を目指して作られる町のことだ。ちなみにトランジションとは、「移行」という意味の英語(Transition)である…続きを読む

CSA(地域支援型農業)とは?いま注目の農業経営モデルを解説
CSAとは、“Community Supported Agriculture”の頭文字をとった略語で、農家と消費者が直接契約する農業経営モデルだ。日本では「地域支援型農業」と呼ばれている。CSAの大きな特徴は…続きを読む

地産地消とは?メリットやデメリット、食や建築、エネルギーなど幅広い分野の取り組み事例を紹介
地産地消は、地域でとれた生産物をその地域で消費することである。地域内の生産・消費を促すことで、生産者と消費者との結びつきの強化、地域の活性化を目指す…続きを読む

エコツーリズムとは?定義や注目される背景、取り組み事例を紹介
エコツーリズムとは、ある地域における自然や歴史などを学ぶことで、環境保全に繋げる観光のことである。環境省の定義によると、エコツーリズムの概念は「自然環境や歴史文化を対象とし、それらを体験し…続きを読む

テロワールとは?サステナビリティとの関係やワインに留まらない事例をご紹介
テロワール(Terroir)は、フランス語で「土地」や「風土」を意味する言葉である。元々ワインの世界で盛んに用いられてきた概念で、ブドウ栽培の現場で特定の土地の自然環境が、どのようにワインの風味…続きを読む

アグリツーリズムとは?農業体験や地域住民との交流を図る新しい観光スタイル
アグリツーリズムとは、「アグリカルチャー(農業)」と「ツーリズム(旅行)」を組み合わせた用語である。地方の農村地域にて田植えや収穫などの農業体験を行い、農村での交流を楽しむ観光スタイルを指す…続きを読む

観光スタイルの新潮流、リジェネラティブ・ツーリズムをご紹介
リジェネラティブ・ツーリズム(regenerative tourism)は再生型観光と訳され、観光事業を通して目的地をより良い状態にすることを目指すものである。リジェネラティブ(regenerative)とは…続きを読む











