エスノグラフィとは
エスノグラフィは、ethnos(民族)とgraphein(記述する)を合わせた造語で、民俗学および文化人類学の研究において活用されてる手法のことを意味する。なお、日本語では「民族誌」と訳され、フィールドワークでの報告をまとめたものを指すこともある。
エスノグラフィは、調査者が研究対象の民族の生活に入り込み、交流や対話を重ねながら彼らの行動や風習、価値観などを長期にわたって観察するという手法だ。この調査によって文献調査やアンケートなどでは知り得なかった「生の声」が手に入り、より深く対象者の視点や立場で考えることができる。
この手法は、マネジメントやマーケティング、人材育成の観点からも有用であるとされ、近年は心理学、社会学、経営学をはじめとしたビジネスの現場でも使用されている。
エスノグラフィとフィールドワークの違い

エスノグラフィと似た手法に、「フィールドワーク」がある。
エスノグラフィとフィールドワークは現地での調査という点で類似しているが、実際に民族や集団の内側に入ることが前提にあるエスノグラフィに対し、野外でのあらゆる調査全般を指すフィールドワークの方が、より広義な意味合いを持っている。
ただしこれらは重なる部分も多く、それぞれにおける調査方法の一種に互いが含まれているといえるだろう。
エスノグラフィが注目される理由
もともと民俗学や文化人類学で生まれたエスノグラフィは、なぜ様々な分野で活用されるようになったのだろうか。
現在は特にビジネス分野で大きく注目されているが、これは1980年代にビジネスシーンで「デザイン思考」の重要性が指摘されるようになったことが理由とされる。デザイン思考とは、ユーザー視点に立って問題を解決に導こうとする思考法で、顧客の求めるものや顧客自身も気づいていないことを見つけるために活用されている。
このデザイン思考を高めるために、ビジネス分野でエスノグラフィという手法が注目されるようになったのである。
それまで商品やサービスの企画開発は企業の売りたいものをベースとしてきた。しかし昨今はあらゆる商品・サービスが成熟し、同水準のものが溢れていることから、消費者が求めるもののレベルも上がってきている。
そこで、実際に消費者はどんなことに困っているのか、どんな悩みを持っているのかを消費者の視点から考え、その問題解決のための商品・サービスを生み出すことが重要と考えられるようになったのだ。
また、エスノグラフィが生まれた当時は「異文化」といえば、遠く離れた異国で言葉も風習も異なる民族が形成するものだった。しかし、グローバル化によって様々な国の人々と日常的に関わったり、価値観の多様化によって同じ民族同士でも全く異なる考えに触れる機会が格段に増えた。つまり、現代社会を生きる私たちにとっての異文化は、非常に身近なものになったのである。
これを受け、社会学や心理学、教育、医療など、多くの分野で「実際に体験することで、相手がなぜそう考えるようになったのか、その解釈過程を知る」ということが重視されるようになり、エスノグラフィに注目が集まったと考えられる。
エスノグラフィのメリット

エスノグラフィに取り組むメリットは様々だが、ここでは大きく3つに分けてみていこう。
良質な一次情報を得られる
自分の五感を使って得た一次情報は、何よりも確実で良質なデータとなりうる。文献調査では、その著者が感じたことや調査したことしか得ることができず、アンケートやインタビューなどもまた、対象者を通した情報でしか判断することはできない。
もちろんそれらも大切な情報だが、そこに自分自身の経験や考えを加えることができるのは、エスノグラフィの大きなメリットだろう。
相手の潜在意識を引き出す
調査者にとっては新鮮でも、対象者にとっては当たり前で無意識に行っている習慣や価値観が存在した場合、インタビューなどでは特に触れられない場合がある。
しかし、観察の中で調査者が感じた疑問や違和感を掘り下げていくことで、対象者自身も気づかなかった悩みや問題、隠れた要望がだんだん浮き彫りになっていく。これにより、これまでにはない商品やサービス、解決策などを生み出すことができるのだ。
先入観を払拭できる
自分の常識は、相手にとってはそうでないこともある。あまりにも自分の中の常識に囚われすぎていると先入観で物事を判断したり、思い込みに気付かないこともありうる。
エスノグラフィは、こうした場合にも力を発揮する。つまり対象の集団だけではなく、自分で自分の潜在意識を知ることにも繋がっていくのだ。そうすれば、自分では考えつかなかったアイデアを思いついたり、誤解や思い込みを払拭することができる。
エスノグラフィが活用される場面

エスノグラフィが活用される場面では、具体的にどんな取り組みが行われているのだろうか。昨今特に注目されるビジネスと教育現場での事例を見ていこう。
企業:マーケティング
エスノグラフィを行う目的は、企業のマーケティングでは少々異なる。なぜなら、ビジネスである以上利益を出さなければならず、消費者や外国などの異文化に対する理解や解釈を最終的に商品・サービスに反映させる必要があるからだ。そのため企業のマーケティングにおけるエスノグラフィでは、具体的なペルソナを設定し、「誰が何に対し、どんな想いを持ってどう行動しているか」を細かく観察することが求められる。
生活者向けの製品を扱っている花王株式会社では、2008年時点でエスノグラフィの手法を取り入れている。消費者がアンチエイジングについてどのように考え、行動しているかを知るため、2007年秋から2008年3月にかけてエスノグラフィを実施している。その調査対象者は「エクストリーム(極端)ユーザー」と言われる、調査テーマに強い思い入れや嫌悪感を持つ人を選んでいる。
こうして得られた情報は社内会議で共有され、様々な視点からのディベートを行っている。
学校:グローバル化へのアプローチ
グローバル化に伴い、多様な背景を持つ生徒が同じ学校やクラスで過ごすことが増えている昨今。教育現場でもエスノグラフィは取り入れられている。
例えばゼミのフィールドワークにおいて、留学生と日本人が共に外国人の多い街へ繰り出すという実践を行っている大学もある。その目的は、異文化理解の必要性を実際に肌で感じることであり、それによって受容や内省を促すことが期待できるという。
多様性の重要性が叫ばれて久しいものの、教育現場での課題点が把握されているとはまだ言い難く、生徒や教師自身がエスノグラフィに取り組んで課題を見つけることが求められている。
エスノグラフィの問題点
エスノグラフィの問題点は、大きく分けて2つある。まずは、調査に時間がかかってしまうことだ。エスノグラフィの趣旨として「集団とともに過ごす」ことが前提にあるため、当然ながら長期的な調査となることは必至だ。ビジネスでは実用性の観点からスピードが重視されるため、こうした面でエスノグラフィの利点を発揮することができない。そのため、ビジネスエスノグラフィでは長くとも数ヵ月の調査で終えられることが求められるのだ。
次に、コミュニケーションの構築が難しい可能性があることだ。対象者にとって調査者はあくまでも外部の人間、いわゆる「よそ者」であることを常に意識し、謙虚な態度を心がければならない。エスノグラフィを行う目的や意味、調査内容がどのように使われるかなどを明確に伝える必要があり、信頼関係を築くことができなければエスノグラフィは失敗してしまう。到底理解できないようなことでも否定はせず、相手の文化に敬意を払うことが重要である。
まとめ
エスノグラフィは、研究や調査において対象の集団や民族と生活を共にし、実体験で理解を深める手法である。現代では特にビジネスシーンで注目され、様々な企業のマーケティング手法として活用されている。
その背景には、現代社会においてユーザー視点での商品・サービスの企画開発が求められているという点がある。表面的な悩みを解決するものは既に世の中にあふれているため、ユーザーすら気づいていない悩みや問題へのアプローチこそが、今のビジネスシーンでは最も重要とされているからだ。
またビジネスだけではなく、多様化の時代における「異文化」は非常に身近なものであるため、職場の人材育成や教育現場など様々な分野で注目されている。
エスノグラフィの根本には「相手を理解する」という意図があり、風習の誕生や解釈過程を知るためのものである。このことからエスノグラフィは、今後さらに加速するグローバル化社会への柔軟な対応に繋がる視点を、私たちにもたらしてくれると考えられるだろう。
参考サイト
「現場」 のエスノグラフィー: 人類学的方法論の社会的活用のための考察|小田博志|波平恵美子編『健康・医療・身体・生殖に関する医療人類学の応用学的研究』 国立民族学博物館調査報告 85:11-34(2009)
エスノグラフィー再考|黒田由行|日本看護研究学会雑誌 Vol. 34 No. 3 2011
災害エスノグラフィーとインタビュー|林 勲男|国立民族学博物館学術情報リポジトリ
ビジネス・エスノグラフィ: 機会発見のための質的リサーチ|田村大|計測と制御 第48巻 第5号 2009年5月号
消費者調査にエスノグラフィー手法を導入 | 日経クロステック(xTECH)
多文化クラスにおけるチーム・エスノグラフィーの 教育実践|徳永智子・井本由紀
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