
アパルトヘイトとは・意味
アパルトヘイトとは、かつての南アフリカ連邦および1961年誕生の南アフリカ共和国で行われていた人種に基づく隔離政策のこと。住む場所を含め、人種によってできることやできないことを政策として決めていた。少数派の白人が先住民である黒人を含む非白人から権利や自由を奪い、自分たちの特権を維持するために行っていたものだ。
アパルトヘイトが実質的に始まったのは南アフリカ連邦が成立した1910年。その後、1948年には国家の基本政策として確立した。しかし、1950年代に入ると国際連合をはじめ、世界各国から非難を受けるようになる。その後、大統領となったフレデリック・デクラーク氏、ネルソン・マンデラ氏によって廃止されるまで実質80年以上続いた。
なおアパルトヘイトとは、オランダ語を祖語とする南アフリカ公用語であるアフリカーンス語で「分離」や「隔離」という意味がある。
アパルトヘイトが生まれた理由
アパルトヘイトの始まりは、南アフリカを舞台にして行われたイギリスとオランダによる紛争が関係している。
南アフリカに初めて移り住んだヨーロッパ人は、植民地であるインドネシアに向かうため現在のケープタウンあたりに中継基地を作ろうとしていたオランダ人だった。しかしフランスのケープ進出を懸念したイギリスが、ケープタウンを占領。先に入植していたオランダ人を降伏させ、1805年ケープタウンに植民地政府を樹立した。
アフリカーナーと呼ばれるオランダ系白人と、金やダイヤモンドなど利権を巡って対立が繰り返された後、1910年にイギリスの自治領として南アフリカ連邦が誕生する。イギリス人とアフリカーナーは対立関係にある中でも、アフリカ人から搾取するという思惑が一致し、次第に協力関係が築かれていく。
そのため、1911年には最初の差別立法といわれる「鉱山労働法」を制定。法律によって、鉱山で働く白人と黒人の賃金に差をつけた。また、1913年には「原住民土地法」を制定し、人口の75%を占めるアフリカ人を全国土の約7%のリザーブと呼ぶエリアに住まわせた。このリザーブはバンツースタン、ホームランドと名称は変わっていくが、アパルトヘイトのベースとなった。
人種差別につながった法律
アパルトヘイトは、地域やグループ内といった小規模な範囲内の人種差別ではなく、法律を制定した上で国策として行われた人種差別である。1948年6月の総選挙でアフリカーナーが結成した国民党(NP)が勝利したことで、正式に「アパルトヘイト」という名称で始まった。
しかし前述したように、南アフリカ連邦が誕生した翌年に「鉱山労働法」を制定し、人種に基づく差別が実質的に始まっている。具体的に、どのような法律によってアパルトヘイトが形作られたのか見ていきたい。
1911年「鉱山労働法」:鉱山で働く白人と黒人の賃金に差をつける
1913年「原住民土地法」:黒人の居住地を定め、移動を制限
1926年「産業調整法」:黒人のストライキ権を制限
1927年「背徳法」:異人種間における恋愛や性交渉を禁止
1948年「人口登録法」:南アフリカ国民を白人・アジア人・カラード・アフリカ人(黒人)の4つの人種に分ける
1949年「雑婚禁止法」:異人種間における恋愛や結婚を禁止
1950年「集団地域法」:都市部の居住区を人種別に割り当てる
1953年「娯楽施設分離法」:公的な場所を「白人専用」「非白人専用」に分ける
1953年「バントゥー教育法」:黒人への教育を制限
このほかにも「テロリズム法」といった人種差別思考な法律により、黒人の生活を制限。あらゆる法の策定によって、アパルトヘイトが完成していった。
アパルトヘイトの仕組み

1948年に制定された「人口登録法」によって人種を以下の4つに分類し、住所登録が行われた。
・白人:アフリカーナーやイギリス系白人など主にヨーロッパ人
・アジア人:アジア系(主にインドやパキスタン)の人
・カラード:主に白人と原住民族やインドネシアなどから連れてこられた人との混血人種
・アフリカ人(黒人):アフリカ原住民族
このように人種の分類を法律で定めたことで、人種による差別を助長したとも言える。ちなみに、1980年時点の人口比率は、白人15%、アジア人3%、カラード9%、黒人73%とされる。
なお、日本と南アフリカは貿易などにより関係性が良好だったことから、日本人は「名誉白人」として扱われていた。そのため、アジア人に対して行われていた制限の一部は解除されていた。1928年に「酒類販売取締法」によってアジア人の酒類の購買を規制したが、日本人だけを優遇したことが「名誉白人」の原型とされる。
アパルトヘイトによる具体的な差別
アパルトヘイトを施行中の南アフリカでは、具体的に以下のような人種差別が法律のもとに行われていた。
- 黒人(16歳以上)には証明書(出生地などが記載)の所持を義務付け
- 参政権のない黒人の代表として白人を選定
- 黒人が抗議活動や反対運動に参加することを禁止
- 異人種間での恋愛や結婚は禁止
- トイレやバスなどの公共機関は白人用と非白人用に分離
- 人種によって教育レベルや教育環境が決定
- 人種によって職業が制限
- 人種別に賃金が決定
当時南アフリカが国として経済的に発展したのは、豊富な資源に加えて、こうしたアパルトヘイト下での黒人からの搾取によるところが大きいという指摘もある。
アパルトヘイトが廃止された背景
1961年に南アフリカ共和国が誕生した後もアパルトヘイトが推し進められる一方、国際社会はアパルトヘイトに対して非難を強めていく。代表的なのが国連の非難決議の採択だ。国連憲章および世界人権宣言に反するとして非難を続けた。また、1970年には国際オリンピック委員会(IOC)からも除名処分を受けている。
国内でも、ネルソン・マンデラが所属していたアフリカ民族会議(ANC)などが主導し、アパルトヘイトに対する反対運動がはじまる。「シャープビル虐殺事件」(1960年)、「ソウェト蜂起」(1976年)などが起きる中で、1977年には国連安全保障委員会が武器輸出禁止を決議。その後、世界各国が経済制裁を開始した。
国内外でアパルトヘイトへの非難が高まる中、フレデリック・デクラークが1989年に大統領に就任。反対運動を主導したとして1962年に逮捕されていたネルソン・マンデラを釈放した。1991年2月には、アパルトヘイト根幹三法と言われた「集団地域法」「原住民土地法」「人種登録法」を廃止。アパルトヘイトが事実上撤廃されることとなった。
アパルトヘイト廃止に重要な役割を果たした二人の人物
アパルトヘイトの廃止に向けて重要な役割を果たしたのは、フレデリック・クラークとネルソン・マンデラという二人の歴代大統領だ。この二人について紹介する。
フレデリック・デクラーク
フレデリック・デクラークはヨハネスブルク生まれのアフリカーナーで、父は同じく大統領を務めたヨハンネス・デクラーク。自身は弁護士を経て、1972年にアパルトヘイトを推し進める国民党(NP)の下院議員になっている。国民党政権下で鉱山相や内務相などを勤めたのち、1989年に当時のボータ大統領が病気療養に入るため大統領に就任した。
大統領に就任した後は、1990年にネルソン・マンデラを釈放するなどこれまでの国民党の方針を転換。黒人たちと交渉を行うなど、柔軟な民主改革を推し進めた。1991年にはアパルトヘイトを廃止することを国会で演説。1994年に発足したマンデラ政権では副大統領に就任し、アパルトヘイト後の政権運営の一端を担った。
ネルソン・マンデラ
ネルソン・マンデラは、農村の首長の子として誕生。フォートヘア大学、南アフリカ大学、ウィットワーテルスランド大学で学び、黒人初の弁護士事務所を開設した。その一方、アフリカ民族会議(ANC)に入党。反アパルトヘイト運動に力を注いだ。
反アパルトヘイト運動が武装闘争路線に移り変わる中、軍事組織の司令官に就任。1962年に活動を問題視されて逮捕される。国家反逆罪で終身刑となったが、フレデリック・デクラーク大統領によって1990年に釈放された。
1991年にはアフリカ民族会議(ANC)の議長に選出。複数の政党による交渉が行われ、1993年に暫定憲法が国会において採択される。また1994年4月に南アフリカ史上初の全人種参加による選挙が実施され、アフリカ民族会議(ANC)が252議席を獲得。ネルソン・マンデラが黒人で初めての大統領に就任した。
その後、国旗や国歌を新しく制定し、さまざまな人種と民族が共存できる「レインボーネーション(虹の国)」の建設を進めた。
アパルトヘイトが廃止されたあとの南アフリカ共和国

ネルソン・マンデラは任期満了に伴って1999年に大統領を退任。政治の世界からも引退した。その後の政権は、汚職や権力闘争などにより不安定な政権運営が続いている。
一方、金やダイヤモンドなどの豊富な資源によりアフリカ諸国のうちで有数の経済大国となったが、リーマンショックや新型コロナ感染症拡大などによって経済成長率が低迷。インフレなどによって通貨価値も下落が続いている。そのため失業率は30%と高い水準にあり、黒人による政権への不満もあって社会犯罪も増え続けている。
アパルトヘイトが廃止された後は表立った人種差別はないとされるものの、白人の平均収入は黒人の3倍となっており、経済格差は解消されていない。貧困層は劇的に減少したが、教育格差が解消されたとは言えない状況が続いている。
アパルトヘイトと現代社会
南アフリカで廃止されたあとも、「差別」を表す言葉としてアパルトヘイトが使われている。国連では性別による差別に対して「ジェンダー・アパルトヘイト」という言葉を使っているほか、国際人権団体がイスラエルのパレスチナ人に対する扱いをアパルトヘイトと避難している。
30年以上経っても、世界のどこかで「分離」「隔離」「差別」といったアパルトヘイトが解消されていないのだ。
ネルソン・マンデラ国際デーとは
一方、アパルトヘイトを繰り返さないような取り組みもある。その一つが「ネルソン・マンデラ国際デー」だ。2009年に国連が創設した国際デーのことで、人種差別が撤廃された象徴の日とされている。ネルソン・マンデラの誕生日である7月18日に、67年間の政治生活にちなんで67分間の社会奉仕活動を行うよう呼びかけている。
なお東京都町田市では、南アフリカ共和国との交流事業を7月18日に実施。市内の「町田リス園」で「67分間の奉仕活動」を実施している。人権意識の高まりを受けて、こうした動きが日本国内でも広まりを見せている。
まとめ
アパルトヘイト廃止まで長い年月はかかったが、政策の誤りに気づき、修正して現代に至る点は新しい国づくりのモデルケースとして世界各地で評価されている。
その一方、アパルトヘイトは廃止されて30年を経た今も人種差別における代表的な例とされる。繰り返すことのないように、アパルトヘイトのもとで何が行われたか、しっかり受け止めたいものだ。
もちろん人種差別だけが差別だけではなく、今も世界ではさまざまな差別が行われている。配慮のない小さな言動が、人権を尊重しない大きな差別となる懸念もある。差別や人権に対する意識を高められるよう、日々の生活を過ごしていくことが今の時代には求められている。
Edited by c.lin
参考サイト
アパルトヘイト|国際連合広報センター
マンデラ|世界史の窓
人種差別の実態 アパルトヘイトとは|国際連合広報センター
ジェンダー・アパルトヘイト|公益財団法人日本女性学習財団
アパルトヘイト終焉から30年 民主化の険しい道のり|NHK
アパルトヘイトの歴史と現状|ゴンドワナ





















倉岡 広之明
雑誌記者として活動した後、フリーライターとして独立。さまざまなジャンルの記事を執筆しているが、北海道で生まれ育ったこともあり、自然環境や気候変動、SDGs、エネルギー問題への関心が深い。現在は、住宅やまちづくり、社会問題、教育、近代史など、多岐にわたるテーマを手がけている。
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