誰もが排除されない街のカタチ。都市の設計と私たちの居場所の行方

街のなかに設置されているベンチに対して、「座りづらい」と感じたことはないだろうか。それは、利用者を遠ざけてしまう「排除アート」と呼ばれる設計によるものだ。なぜ街は他者に対して不寛容になってしまったのか。本記事では、都市設計の裏側にある葛藤をひも解き、誰も弾かれない温かな未来への道筋を探る。

「優しくないベンチ」が増えている? 街に潜む“排除アート”

東京・青山の街中には、一風変わったベンチがある。座面が丸みを帯びていて背もたれがない、ドーナツ状のベンチだ。まるで美樹館にあるオブジェのような外観であり、これがベンチだとわからない人もいるかもしれない(*1)。

ほかにも、丸の内や京橋などには仕切りのついたベンチ、渋谷の複合商業施設・ミヤシタパークにはポールのような細長いベンチが存在する(*2)。

このような一見おしゃれに見えるが座りづらいベンチが、近年増えている。

これらは、特定の誰かを遠ざける機能をもつ「排除アート」というものだ。海外では「Hostile architecture(敵対的な建築)」や「Defensive urban design(防御的なアーバン・デザイン)」とも呼ばれている。

排除アートの設計は、「座る」という機能こそ残しているものの、体を休ませたり横になったりする自由を巧妙に奪っている。誰もが平等に過ごせるはずの公共空間で、いったい何が起こっているのだろうか。


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効率と安全の代償。「ただ座る自由」が奪われる

ベンチが排除アート化している背景にあるのは、「防犯」や「適正使用」の問題である。

排除アートの多くは、ホームレスの滞在やスケートボーダーの使用を防ぐという名目で設置されている。近隣住民や管理側の立場を考えれば、頭ごなしに否定できるものではない。

ただ、効率重視で物理的に排除を進めてしまう手法は、公共空間から「余白」を消し去ってしまうリスクもあるのではないだろうか。

街中のベンチは、長時間歩くのが困難な高齢者や子ども連れ、急に体調を崩した人を休ませる役割を担っている。しかし、排除アート的なベンチは、こうした人々の「無目的に休む権利」を奪ってしまっているのだ。座って、あるいは横になって体を休められないのは、私たち全員が当事者となり得る問題である。

本来、公園や広場は誰でもフラットに受け入れる福祉的な役割を持つべき場所だ。にもかかわらず、それが街から失われつつある現状は、社会の不寛容さを可視化しているといえるだろう。


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「寛容的な社会」になれない現実と葛藤

ベンチという公共の場所は、単なる休憩の道具ではなく、その社会がどれほど「寛容」であるかを映し出す象徴でもある。横になれるベンチは、「休みたい」という欲求や自分とは異なる属性を受け入れる包容力を表しているのだ。

さらに、ベンチは人々の間に緩やかなつながりや安心感をもたらす。

江戸時代の日本では、現代のベンチにあたる「縁台」が家や店の前に多く設置されていた。この縁台によって、人々は街全体を「共有の居間」のように感じ、コミュニケーションをとっていた。この空間は、人々がのびのびと生きるためのセーフティーネットとして機能していたのだろう。

しかし、現代はどうだろうか。現代の都市設計では管理側の「恐れ」が優先されている。防犯や適正使用という名目のもと、ホームレスやスケートボーダーを遠ざける設計がなされているのだ。

たとえば、冒頭で紹介した東京・京橋のベンチは、制作者側が「誰も排除したくない」と強く抵抗したものの、管理側の要望により、座面を分断する突起の追加を余儀なくされた。ベンチの設置後、SNSでは「陰険な作り」「熱中症になった時に横になることもできない」など批判の声が寄せられている(*3)。

この事例から、排除アートが特定の層を追い出しただけでなく、街全体の居心地を損なわせてしまったことがうかがえる。

こうした現象を目の当たりにしたとき、問題とするべきは排除アートという物体そのものではない。そうした手段に頼らざるを得ないほど、余裕を失い不寛容になってしまった社会である。排除は一時的な症状の隠蔽に過ぎず、根本的な貧困や孤立、マナーの問題を解決するものではないはずだ。

確かに、防犯や適正使用の観点から、特定の行動を防ぐ設計が必要な場面も存在する。深夜の公園で集団が溜まれば、近隣トラブルが発生することも否定できない。

だが誰かを拒絶した設計の先に、真に優しい街は存在しない。多様な人々が混ざり合い、時には目的もなく佇むことができる。そんな街の「余白」をどう再設計していくべきか。私たちは当事者として考え続ける必要がある。


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仕切りを外した街に戻った風景

排除アートを解体し、あえて誰もが自由に佇める「余白」を街に取り戻す─。そんな試みも各地でおこなわれている。

東京都

豊島区では、高齢者をはじめとする人々の外出・移動支援を目的に、街中のベンチを広める「としまベンチプロジェクト」が実施されている。本プロジェクトにおいては、区民や地元の企業の協力により、計93カ所にベンチが設置された。また、プロジェクトの一環として、子どもたちが参加できるワークショップも開催。そこで作られた26脚の椅子は、地域の交流拠点である区民ひろばに設置されている(*4)。

イギリス

著名人の声をきっかけに仕切りが排除された事例もある。アーティストであるスチュアート・センプル氏は、地元を歩いた際、ベンチにホームレスの就寝防止用のひじ掛けが付けられているのを発見した。この写真を撮って投稿したところ反響を呼び、ひじ掛け撤去の嘆願書提出につながった。この運動には2万人分を超える署名が集まり、結果として自治体はひじ掛けを撤去している(*5)。

カナダ

より実践的なサポート提供という意味では、カナダの都市・バンクーバーの事例も興味深い。ホームレスと住宅問題に取り組む団体・Raincity Housingは、折りたたみできる背もたれの付いたベンチを独自に開発。これにより、日中はベンチとして、夜間や雨天時はホームレスのベッドや雨宿り用シェルターとして利用できる設備が、人々の日常に寄り添うことになった(*6)。


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街の設計は、単に道路や建築物を配置することではない。私たちが他者とどのように関わり、どのような社会を築きたいかという「人としての接し方」を形づくるものだ。

排除を前提とするのではなく、弱さを抱えたままでも存在できること、そして違う形での防犯や適正使用の喚起はできないかを考えること。これこそが、これからの都市づくりに求められる視点なのだろう。

次に街を歩くとき、「ちょっと休みたいな」と思ったら絶好のチャンスである。設置されているベンチの形から、その街が持っている「優しさ」を感じ取ってみよう。もしも排除アート的な形をしていたら、何故そうなっているのかを考えてみてほしい。その疑問をそれとなく自治体に尋ねてみるのも1つの手だ。

そんな一人ひとりの小さな行動が、やがて誰も排除されない都市をつくる力に変わってゆくのではないだろうか。

Edited by s.akiyoshi

注解・参考サイト

注解
*1,2 巧妙化する「排除アート」 誰にもやさしくない都市が牙をむく時 | withnewsより
*3 「排除ベンチ」抵抗した制作者が突起に仕込んだ「せめてもの思い」 | withnewsより
*4 としまベンチプロジェクト|豊島区公式ホームページより
*5,6 Anti-Anti Hostile Architecture: Simple ways for inclusive design | Parametric Architectureより

参考サイト
排除アートと過防備都市の誕生。不寛容をめぐるアートとデザイン|美術手帖
巧妙化する「排除アート」 誰にもやさしくない都市が牙をむく時 | withnews
「排除ベンチ」抵抗した制作者が突起に仕込んだ「せめてもの思い」 | withnews
としまベンチプロジェクト|豊島区公式ホームページ
Anti-Anti Hostile Architecture: Simple ways for inclusive design | Parametric Architecture

About the Writer
早瀬川シュウ

早瀬川 シュウ

フリーライターとして活動中。「日々の生活に『喜び』を」がモットー。特に、「快適さ」や「居心地のよさ」へのこだわりが強い。子どもの頃から海や森林公園を訪れていることもあって、自然環境や景観への興味関心も持っている。せせらぎの音や木漏れ日、お茶をじっくり味わう時間を好んでいる。
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