仕事がなくなったとき、人は何で満たされるのか

AIとベーシックインカムで「働かなくていい未来」が近づいている。朗報のはずなのに「人がダメになるのでは」という不安が消えない。その正体は何か。ネズミの楽園実験「ユニバース25」とウェルビーイングの観点から、生活が満ち足りたとき人は何で満たされるのかを考えてみたい。

「働かなくていい未来」が怖いのは、なぜか

「長い休みが欲しい」と思ったことのある人は多いだろう。ところが実際に連休が続くと最初の数日は快適でも、次第に何をしていいかわからなくなる。そして休み明けに感じる気だるさは、体の疲れとは違う。

十分に眠ったはずなのにやる気が湧いてこない、やることはあるのに集中できない、休んだのにそもそも元気が出ない、という不思議な感覚である。

AIの進歩とベーシックインカムの議論が進む中で、「働かなくてもいい未来」が現実味を帯びてきた。生活費の心配がなくなり、自由な時間が増える。一見すると素晴らしいニュースである。それなのに、どこかで「人がダメになるのではないか」という予感が消えない。

不安の正体は、おそらく「お金がなくなる」ことではない。「自分が必要とされる理由が消える」ことへの恐れであり、生活が満ち足りたとき、人は何を目的に生きるのか。

この問いを考えるために、ひとつの実験から話をスタートしたい。


シンギュラリティは本当に来る?“人間の仕事”を見直し、AIと上手く付き合う
世界から学ぶ生活賃金──海外事例とその課題

ユニバース25が示した「関係と役割の崩れ」

1968年、アメリカの行動学者ジョン・B・カルフーンは「ユニバース25」と呼ばれる実験を始めた。食料と水が潤沢に供給される囲いの中で、ネズミの社会がどのように変化するかを観察する試みである。

結果は衝撃的だった。最初のうち、個体数は順調に増えていく。しかし空間が過密になるにつれて、行動に異変が生じ始めた。攻撃性が増し、育児放棄が広がり、交尾行動が失調していく。やがて繁殖自体が成り立たなくなり、集団は崩壊へと向かった。

この実験はしばしば「楽園の崩壊」として語られる。豊かさが人間をダメにする、という警告として引用されることも多い。しかし実験が示したのは「豊かさ」の問題ではなかった。

カルフーンが観察したのは、過密化によって居場所や役割が成り立たなくなったとき、社会的な行動が壊れていく過程である。ネズミたちに欠けていたのは食料でも水でもなく、自分の居場所と他者との関係だった。

現代に目を向けると、似たような状況がすでに始まっているようにも見える。時間を持て余したとき、人はスマホのアルゴリズムが流す動画やSNSに吸い込まれやすい。自分で選んだわけでもない刺激が次々と流れてきて、気がつくと数時間が過ぎている。

受動的な快楽に浸り続ける姿は、役割を見失っていったネズミたちと、どこか重なるところがある。もちろん人間とネズミを単純に重ねることはできない。人間には文化があり、制度があり、意味をつくり出す力がある。それでも、この実験はひとつの問いを投げかけている。

物質的に満たされた環境で、人は何によって支えられるのだろうか。


居場所を奪われる若者たち。安心できるサードプレイスをつくるためには
なぜスマホがやめられない

ウェルビーイングは「成長とつながり」で成り立つ

心理学の分野に「自己決定理論(Self-Determination Theory)」と呼ばれる枠組みがある。人間の基本的な欲求を整理したもので、エドワード・デシとリチャード・ライアンによって提唱された。

この理論によれば、人が「よく生きている」と感じるためには、三つの要素が必要になる。

  • 「自律性」:自分で選んでいるという感覚。
  • 「有能感」:何かができるようになっていく手応え。
  • 「関係性」:誰かとつながっているという実感である。

興味深いのは三つが揃うと、ただの「気持ちよさ」を超えた充実感が生まれる点にある。楽しいから満たされるのではなく、成長しているから、誰かの役に立っているから、満たされるのだ。

この状態について、ウェルビーイングの研究では「ユーダイモニア」と呼ぶことがある。一時的な快楽とは異なる、自分の力を発揮しながら生きている手応えを意味する。

ここで仕事というものを振り返ってみたい。仕事は収入を得る手段であると同時に、さきほどの三要素を知らず知らずのうちに満たしてくれる場でもあった。締切があるから動き出し、評価があるから手応えを感じ、同僚がいるからつながりが生まれる。つまり仕事とは、目的や役割を半ば自動的に与えてくれる仕組みともいえる。

AIによって仕事が減るとき、失われるのは収入だけではない。やるべきことを示してくれる締切、手応えを感じさせてくれる評価、自然とつながりが生まれる同僚など、仕事はこうしたものを意識しなくても届けてくれていたのだ。仕事に大きく委ねてきた人ほど、それが失われたときの影響は大きいだろう。


セルフエフィカシーとは?意味や自信を高める方法などを紹介
自己肯定感とは?ありのままの自分を大切に肯定できる意識づくり

必要なのは「自分が要る場所」をつくること

それでは、どうすればいいのか。精神論で「目的を持て」と言っても始まらない。必要なのは、目的が自然と生まれてくるような場を持つことである。自己決定理論の三要素に沿って考えると、いくつかの方向性が見えてくる。

自律性を満たすには、小さくてもいいから自分で選んだ課題を持つことが有効である。学び直し、創作、運動、地域の活動など、何でもいい。誰かに言われてではなく、自分で「やってみたい」と思えるものを持つことが大事になるだろう。

関係性については、ゆるい所属を複数持つことが助けになる。ひとつの職場だけに依存するのではなく、趣味のコミュニティ、ボランティア、オンラインのグループなど居場所を分散させておけば、ひとつが崩れても、別の場所でつながりが残る。

有能感(何かができるようになっていく手応え)は、挑戦と手応えの循環から生まれる。何かに取り組み、反応が返ってきて、もう少しやってみたくなる。この流れが途切れないことが大切である。誰かの役に立った実感、感謝の言葉、目に見える変化など、そうした手応えが返ってくる関係を仕事の外にも持っておきたい。

ただし、ここで気をつけたいことがある。「成長しなければ」「役に立たなければ」と思ってしまうと、それ自体が新たな重荷になりかねない。関係性とは、必ずしも何かを成し遂げることではない。ただ「そこにいる」「誰かと時間を共有する」だけで十分なときもある。話を聞いてもらえるだけで気持ちが楽になった、という経験は誰にでもあるはずだ。

もうひとつ、効率や快適さを求めすぎると見落としがちなことがある。他者との関係は、しばしば思い通りにいかない。面倒に感じてしまうこともある。しかしコントロールできないからこそ、自分という存在の輪郭がはっきりしてくることがある。すべてが最適化された環境より、不自由でも手触りのある関わりの方が「自分がここにいる」という実感を与えてくれる。

ユニバース25のネズミたちは、逃げ場のない空間で役割を失い、関係を失った。しかし人間には「場を選び、関係をつくり直す自由」がある。その自由をどう使うかが、これからの時代に重要な問いとなるだろう。


高齢者は「支えられる」だけじゃない。“地域の先生”が繋ぐ多世代のコミュニケーション1
ピアサポートとは?「同じ経験」がもたらす、心の支えと回復の力

「生きる意味」はつくることができる

「AIが仕事を奪う」という言葉がしきりに聞こえるようになった。しかし本当に奪われるのは仕事というよりも、仕事が与えてくれていた「生きる意味の供給」なのかもしれない。

ユニバース25は破滅の予言ではない。あの実験が示しているのは「物質的な豊かさだけでは社会が成り立たない」という事実だった。

人には居場所が、役割が、誰かとの関係が必要であり、それらが満たされてはじめて、生きることに手応えが生まれてくる。

生きる意味は、どこかから降ってくるものではない。しかし生まれやすい場をつくることはできる。自分で選び、手応えを感じ、誰かとつながる。その三つを意識して暮らしの中に組み込んでいくこと。大げさな目標ではなく、小さな「自分が要る場所」をいくつか持っておくこと。

働かなくていい未来が来たとき、人は何で満たされるのか。その答えは現在の暮らしの中に、私たちの足元に、すでにあるのではないか。

Edited by s.akiyoshi

参考サイト・参考文献

書籍
エドワード・L・デシ、リチャード・フラスト著、桜井茂男訳『人を伸ばす力―内発と自律のすすめ』新曜社、1999年
前野隆司、前野マドカ『ウェルビーイング』日本経済新聞出版、2022年
井上智洋『AI時代の新・ベーシックインカム論』光文社新書、2018年

論文
Calhoun, John B. “Death Squared: The Explosive Growth and Demise of a Mouse Population.” Proceedings of the Royal Society of Medicine, Vol.66, 1973, pp.80-88.

About the Writer
芦澤_Sea The Stars

Sea The Stars

大学院で哲学(環境倫理学)を学んだあと、高校の社会科教員に。子どもの誕生をきっかけに、ライターへ転身。哲学や歴史をメインに執筆し、西洋哲学に関する書籍の執筆も担当。厳しい時代だからこそ、寛容さ(多様性)が大事だと考えている。週末は海外サッカー(プレミアリーグ)に夢中。
この人が書いた記事の一覧

Related Posts