
会議、選挙、就活──私たちは日々、誰かが決めたルールに従って生きている。しかし「なぜ従うのか」と問われると、明確に答えられる人は少ない。歴史家ユヴァル・ノア・ハラリは、社会を支えているのは「共有されたフィクション(作り物)」だと論じた。社会はフィクションだと気付いたとき、私たちはどう振る舞えばよいのだろうか。
ルールへの違和感

誰も異論を唱えない形式的な会議を長時間こなし、誰も読まない議事録を毎月作成する。選挙のたびに「この一票に意味があるのか」と冷めた目を向けつつ、就職活動ではありきたりの言葉で自分を必死にアピールし、作られた笑顔を浮かべる。
こうした場面を通じて「なぜ自分はこのルールに従っているのか」という疑問がふと浮かぶことがある。
周囲を見渡しても、皆が当然のようにそのルールを守っている。疑問を口にすれば「そういうものだから」と返されるか、空気の読めない人間として扱われてしまう。違和感を覚えながらも従い続ける。あるいは心のどこかで「これは茶番だ」と思いながら、笑顔でなんとなく参加し続ける。そんな感覚を抱く人もいるかもしれない。
この違和感の正体は何なのだろうか。
社会は「共有されたフィクション」である

歴史家ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』で、人類の社会を支えているのは「共有されたフィクション」だと論じた。国家、法律、貨幣、会社──これらはいずれも物理的な実体を持たない。つまり目に見えない存在だ。誰かが「これは一万円の価値がある」と信じ、別の誰かも同じように信じているから、ただの紙切れは貨幣として機能する。
同じように法律も「この規則には拘束力がある」という共通の了解があるからこそ、社会は秩序を保っている。
「週末」という概念さえも、考えてみればフィクションだ。自然界には「土曜日」も「日曜日」もない。私たちが「週末は休むものだ」と信じているから、週末は存在する。つまり私たちが日々従っているルールの多くは、「みんながそうだと信じているから成り立っている」という性質を持っている。
会社の就業規則も、名刺交換の作法も、履歴書の書き方も、どこかで誰かが決めた「物語(フィクション)としてのルール」にすぎない。
こうした視点に立つと、先ほどの違和感の正体が見えてくる。 形式だけの会議や選挙の投票も、それらが「絶対的なルール」ではなく「誰かが決めた取り決め」にすぎないことを、私たちは薄々どこかで感じ取っていたのかもしれない。 違和感が立ち現れるのは、「フィクションの継ぎ目」が見えてしまう瞬間にこそある。
しかし、ひとつの問いが生まれる。フィクションだと気付いたなら、私たちはそこから「降りる」ことはできるのだろうか。
「降りる」という選択肢

社会のルールがフィクションであるならば、それに従わないという選択肢もあるはずだ。実際に「降りる」ことへの憧れは、多くの人が抱いたことがあるかもしれない。煩わしい人間関係から離れたい。意味のない仕事を辞めたい。社会の期待に応え続けることに疲れた。
しかし完全に「降りる」ことは、ほとんどの人には難しい。まず生活の問題がある。貨幣もフィクションだとはいえ、それなしに現代社会で暮らすのは困難を極める。どこかで働き、どこかに住み、誰かと関わる限り、社会のフィクションから完全に自由になることはできない。
もう一つ、より本質的な問題がある。フィクションから降りることは、人が生きる場所から降りることにも近い。社会のルールは煩わしいものであると同時に、人間同士をつなぐ媒介でもある。法律があるから契約が成り立ち、貨幣があるから見知らぬ人とも取引ができる。言語さえも、ある意味では共有されたフィクションだ。見知らぬ人同士が協力できるのは、同じフィクションを共有しているからである。
「約束は守るものだ」「お金には価値がある」という了解がなければ、私たちは身近な人としか関係を結べない。つまりフィクションは煩わしい一方で、人と人をつなぐ見えない糸でもある。
完全に降りてしまえば、孤立が待っている。あるいは別のフィクションを一から作り直す必要に迫られる。それは自由であると同時に、途方もない困難さを伴う。
踊り方を選ぶ

それでは、どうすればよいのか。作家の村上春樹は『ダンス・ダンス・ダンス』の中で、こんな会話シーンがある。
「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。なぜ踊るかなんて考えちゃいけない。
意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる」
(村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』講談社文庫)
社会というフィクションとの向き合い方について、この言葉は一つの示唆を与えてくれる。社会のルールに本質的な意味があるわけではない。しかし「意味がないなら従わなくていい」と立ち止まれば、足は止まり、居場所を失う。
社会が「作り物(フィクション)」であることを知りながら、それでも踊り続けること。何も考えずに流されるのではなく、冷めた目で全てを突き放すのでもなく「これはフィクションだ」と自覚しつつ、その中で自分のステップを選んでいくこと。
「降りる」か「従う」かの二者択一ではない。同じダンスフロアにいても、踊り方は一つではない。周囲と同じステップを踏む必要はないし、かといって舞台を去る必要もない。少しテンポをずらしてもいいし、ときには踊るふりをしながら息を整えていてもいい。
重要なのは「自分はいま、フィクションの中にいる」という自覚を持つことかもしれない。その自覚があれば、ルールに従うときも「従わされている」のではなく「従うことを選んでいる」という感覚を持てる。
選んでいるからこそ「別の選び方もありうる」にも気付くことができる。
音楽は続いている

ここまで見てきたように、フィクションは社会の隅々にまで張り巡らされている。そこから完全に離脱することは、おそらく現実的ではない。
しかしフィクションの中でどう身を置くかを考えることには、意味があるように思える。どんな踊り方を選ぶかは、踊る人それぞれに委ねられている。そして、その選択は一度きりではなく、日々の中で何度でも問い直すことができる。
音楽は続いている。私たちはその中で、どのように踊るのだろうか。
Edited by s.akiyoshi
参考サイト・参考文献
ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史──文明の構造と人類の幸福』(上・下)柴田裕之訳、河出書房新社、2016年
ジョン・R・サール『社会的世界の制作──人間文明の構造』三谷武司訳、勁草書房、2018年
村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』(上・下)講談社文庫、1991年






























Sea The Stars
大学院で哲学(環境倫理学)を学んだあと、高校の社会科教員に。子どもの誕生をきっかけに、ライターへ転身。哲学や歴史をメインに執筆し、西洋哲学に関する書籍の執筆も担当。厳しい時代だからこそ、寛容さ(多様性)が大事だと考えている。週末は海外サッカー(プレミアリーグ)に夢中。
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