なぜ社会はヒリヒリするのか。SNSで増幅する「正義」

スマートフォンを開けば、今日もどこかで「正義」が争われている。政治的な議論に限った話ではない。企業の広告表現、著名人の過去の言動、見知らぬ誰かのマナーに至るまで、あらゆるものが「善か、悪か」の法廷にかけられているかのようだ。

議論が活発になるのは悪いことではない。しかしそこに漂う空気は、建設的な対話の熱気というよりは、どこか張り詰めた、ヒリヒリするような焦燥感に近い。

宗教的な戒律から解き放たれ、自由になったはずの現代社会で、なぜ私たちはこれほどまでに互いの「正しさ」を裁き合わなければならないのだろうか。

その息苦しさの正体について、少し立ち止まって考えてみたい。

宗教は弱まったのに、「正しさ」を求める気持ちは消えなかった

宗教の権威が弱まれば、人々は理性を手にし、対話によって冷静に社会を運営していくだろう。

かつて多くの知識人は楽観的な未来を描いていた。しかし現実は予想と異なる展開を見せている。

「宗教がなくなれば、人は価値判断の呪縛から解放される」という見立ては、半分しか当たっていなかったようだ。たしかに宗教の権威は弱まった。しかし「何かを信じたい」「善悪を判断したい」という欲求自体は消えなかったのである。

ここで補助線となるのが「宗教の代替」という視点だ。

社会学者のエミール・デュルケームは、宗教の本質について「信仰の内容」ではなく「社会を統合する機能」に見出した。

人々が「聖なるもの」を共有しそれらを尊重することで、バラバラな個人がつながり、共同体が維持される。重要なのは「聖なるもの」が、必ずしも神である必要はないという点だ。

人間とは、意味を求めずにはいられない。

かつて宗教という大きな器は「なぜ生きるのか」「何が善で、何が悪なのか」という、大きな問いを受け止めてきた。しかしその役割が後退したとき、「信じたい」「つながりたい」「救われたい」という根源的な欲求はどこへ向かうのだろうか。

そのエネルギーは消滅することなく、別の場所へ移動する。

日曜日に教会へ足を運ぶ人は減っても、週末にスタジアムへ通い、同じユニフォームを着てチームを応援する人々がいる。特定の政治家を熱烈に支持し、その言葉を広めることに使命感を覚える人もいる。

宗教に代わる受け皿となったのは政治や社会運動であり、時に強い帰属意識を伴う熱狂やナショナリズムなのかもしれない。

政治や運動が「救済」を語り始めるとき

近代化によって世界から魔術的な説明が後退し、計算や制度が前面に出る流れを、マックス・ウェーバーは「脱魔術化」と呼んだ。

しかし科学や計算が得意なのは「どうすれば効率が上がるか」という問いであり、「どう生きるべきか」という価値の問いには答えを持たない。

価値の空白が生まれたとき、そこに政治的な物語が入り込む。「腐敗した社会を一掃すれば、理想の世界が訪れる」という語り口は、宗教が担っていた「救済」の変種ともいえる。

政治哲学者エリック・フォーゲリンが指摘したように、政治運動が「救い」を現世で実現しようとすると、対立の形が変わる。反対者は単なる「意見の違う市民」ではなく「理想の実現を阻む敵」として映るようになる。

SNS上の議論で感じる「話が通じない」という感覚の正体は、ここにあるのではないか。表向きは政策や事実について話しているようでいて、実際には互いの「信仰」や「聖なるもの」をぶつけ合っているだけなのだ。

このとき言葉は説得の道具ではなくなる。

SNSで流れてきた投稿をリポストするか、しないか。話題になっている人物を擁護するか、批判するか。

その選択は議論への参加ではなく、「私たちの味方である」ことを証明するための儀式として機能してしまう。

孤立した人ほど、強い「正しさ」に惹かれていく

さらにこの状況を加速させるのが「孤立」の問題である。

哲学者のハンナ・アーレントは、全体主義の起源を論じる中で、孤立した人々が単純で強い物語に惹かれやすくなると分析した。ここでいう孤立とはただ一人でいることではなく、意見の違いを抱えたまま他者と共存できる「公共の居場所」を失った状態を意味する。

孤立した個人にとって「善悪の断罪」は魅力的な避難所になる。

たとえば企業の不祥事や著名人の失言が報じられたとき、背景や文脈を調べるのは手間と労力がかかる。

しかし「あいつは悪だ」と断じてしまえば、複雑な問題を考える負担から解放される。どちら側に立つかを決めれば、瞬時に「正義の側」という帰属意識も手に入る。

逆に言えば「白黒つけずに考え続けよう」という態度は、孤立した心にはあまりに頼りない。支えを求める人にとって、曖昧さに耐える姿勢は荷が重すぎるのだ。

正しさが居場所の代わりになり、その居場所を守るために、より鋭く攻撃的な正しさが求められる。私たちが感じている息苦しさは情報の過多だけではなく、こうした「つながりの変質」が生んだものかもしれない。

正しさに飲み込まれないために、私たちができること

それでは現代の「見えない宗教」が発動しているとき、そこにはどんな兆候があるのだろうか。冷静さを取り戻すために、いくつかの観察点を置いておきたい。

教義化:ある主張が検討されるべき案ではなく、「疑ってはいけない教え」になっていないか。たとえば素朴な疑問を口にしただけで「わかっていない」「勉強不足」と遮られる。そんな空気があるなら、その主張はすでに議論の対象ではなく「信仰の対象」に変わっている可能性がある。

異端化:反対意見を持つ人が「許されない存在」として扱われていないか。議論の相手が「間違っている人」から「排除すべき敵」へと変わったとき、対話の回路は閉ざされてしまう。

所属の肥大:その集団にいるために、特定の言葉遣いや沈黙が強制されていないか。「仲間であること」を証明するために、内心では疑問を感じていても異論を口にできない空気があるなら、集団の健全さは損なわれている。

未来の絶対化:「この改革さえ成功すれば」という語りが、現実の複雑さを覆い隠していないか。理想の実現を急ぐあまり、現在の犠牲や副作用を「必要なコスト」として軽視し始めたら、その運動は危うい段階に入っている。

これらの兆候が見えたとき、私たちは一度立ち止まる必要がある。

もちろん不正に怒り、社会を良くしようと行動すること自体は尊い。しかし自分の中に湧き上がる「正しさ」の感情が、どこから来ているのかを点検することはできるはずだ。

今、相手に投げかけようとしている言葉は、対話のためだろうか。それとも自分の不安を埋め、どこかへの帰属を確認するための「祈り」の代わりになっていないだろうか。

宗教が弱まった社会において、私たちは自分自身で、心の拠り所や善悪の基準をメンテナンスしなければならない。それは神に委ねるよりもはるかに難しく、骨の折れる作業だ。

絶対的な正解がない世界で、宙ぶらりんの状態に耐えながら、他者と考え続けること。その頼りない営みの繰り返しだけが、熱狂に飲み込まれずに、私たちが互いに人間であり続けるための数少ない方法なのかもしれない。

あなたはスマホ画面の向こうに、何を見ているだろうか。

Edited by c.lin

参考文献

エミール・デュルケーム(2014)『宗教生活の基本形態(上・下)――オーストラリアにおけるトーテム体系』(山崎亮 訳)筑摩書房(ちくま学芸文庫)
マックス・ウェーバー(1980)『職業としての学問』(尾高邦雄 訳)岩波書店(岩波文庫)
エリック・フェーゲリン(2003)『政治の新科学――地中海的伝統からの光』(山口晃 訳)而立書房
ハンナ・アーレント(2017)『全体主義の起原(全3巻)』(大久保和郎・大島通義・大島かおり 訳)みすず書房

About the Writer
芦澤_Sea The Stars

Sea The Stars

大学院で哲学(環境倫理学)を学んだあと、高校の社会科教員に。子どもの誕生をきっかけに、ライターへ転身。哲学や歴史をメインに執筆し、西洋哲学に関する書籍の執筆も担当。厳しい時代だからこそ、寛容さ(多様性)が大事だと考えている。週末は海外サッカー(プレミアリーグ)に夢中。
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