本連載では、生産者を訪ねる取材記事と、そこから広がる食卓や思想の物語を交互にお届けしている。
前回、北海道糖業株式会社道南製糖所では、砂糖製造の現場を訪ね、
ビートから甘みを引き出す製糖の工程と、その営みの奥深さを取材した。
そして今回は取材後記として、
砂糖が日本に伝来してから現在に至るまでの歴史をたどりながら、
技術の導入や人々の試行錯誤によって甘みが私たちの暮らしに根づいてきた過程を見つめ直している。
当たり前に手にしている砂糖の背後にある時間と情熱に触れることで、
一つひとつの食材が持つ意味が、より立体的に感じられる一篇となった。
ー編集部よりー

ケーキを焼いているとき、ふと思ったのだ。
「この材料はたいてい北海道で揃うのでは?」
身近なところで、小麦粉や卵や乳製品が生産されていることに、なんだかワクワクしてきたのだった。
そこで、いちごのショートケーキができるまでの旅をすることにした。材料の生産者を訪ねてみよう。どんな人が、どうやって生産しているのか。全員の顔を思い浮かべながら、集めた材料で、最後にとびっきりのケーキを焼くつもりでいる。
さあ、一緒に出かけましょう。
前回、北海道糖業株式会社道南製糖所では、砂糖製造の現場を取材をさせていただいた。製糖は、ビートから糖分を取り出すシンプルな営みでありながら、数多くの工程を経なければならない作業でもあることがよくわかった。
その中で、伊達市は日本のビート発祥の地であることを紹介した。実は人間と砂糖、そして日本の製糖については、紆余曲折、波瀾万丈の歴史がある。そこで今回は、砂糖と製糖の歴史をたどってみたい。
砂糖は輸入品だった
日本に残る最古の砂糖の記録は、奈良時代にまでさかのぼる。756年に遣唐使が中国から運んできたのだ。ただし、当時は上流階級のための薬という扱いであり、その後も長らく庶民が口にすることはなかった。
砂糖が手に入らない時代に、ひとかけらを口にしたら、元気が出るだろうと、現代でも想像できる。ちなみにアメリカにおいても、19世紀後半になるまで砂糖は貴重品だったそうだ。それまでアメリカにおける「甘いもの」はなんと、リンゴだったというのだから驚かされる。リンゴはおいしいけれど、どちらかと言えば「甘酸っぱいもの」という気がする。
日本で甘味料として使われるようになったのは、15世紀ごろと言われている。それ以前の甘味づけは、ツタの樹液を煮詰めた「甘葛(あまづら)」だったようである。食べたことはないけれど、さらりとした甘さがあるそうだ。
そしてついに、砂糖の歴史に画期的な出来事が起こった。1543年にポルトガル人が種子島に漂着したのである。この際に鉄砲が持ち込まれたのだが、私たちの関心はあくまでも砂糖にある。以後、スペイン人やオランダ人が渡来するようになり、砂糖や南蛮菓子が伝えられた。このあたりでカステラも日本デビューとなる。
第10回の記事で作ったカステラは、実は日本砂糖史における、シンボルのような重要な存在なのだ。薬としての砂糖しかなかった時代にカステラを口にした人は、どれほどおいしく感じたことだろう。現代においてその衝撃度を推し量ることはほとんど不可能ではないだろうか。
製糖の広まりと衰退

一度、砂糖の強烈な魅力に触れてしまったら、自前で作れないかと考えるのは当然だろう。その後、ついに日本でも砂糖製造が始められる。1623年、琉球王国が中国に使者を派遣し、サトウキビの栽培法と製糖法を学ばせた。製糖技術を持ち帰り、琉球で初めて黒糖を製造したのだ。
一躍、製糖業は琉球王国の財源となった。しかし、薩摩藩直轄の黒糖専売制が敷かれると、年貢は黒糖で納めることとされ、過酷な労働が課せられ収奪が行われた。それだけ砂糖は需要の高い、貴重品であったのだ。
18世紀になると、西日本を中心に製糖が盛んになる。同時に和菓子も発展していく。意外に、和菓子の歴史は浅いことに気づかされる。結局は、砂糖がどれほど手に入りやすいかということに、お菓子の発展は規定されているのだろう。
ところが江戸時代末期になると、砂糖の関税が引き下げられたことにより輸入品が増え、国内の製糖は衰退してしまう。
その一方で消費量はどんどん増えていったため、輸入金額がかさんでくる。結果として明治時代には再び、国内で砂糖を製造しようという機運が高まってくる。ここで登場してきたのが、砂糖の原料としては新しいビートだった。
砂糖にも深く関わっていたクラーク

「Boys, be ambitious」という言葉がよく知られている、札幌農学校の初代教頭・クラークは、「ビート栽培と製糖業は北海道に適している」と強く主張していた。
明治10年のことである。札幌農学校の任期を終えたクラークが、帰国途中に、当時開拓の進んでいた紋鼈村(現在の伊達市)に立ち寄った。案内したのは、旧伊達藩の入植者であり、亘理伊達家の元家老・田村顕允。このとき田村は、クラークからアメリカでの有畜畑作農業について教えられ、ビート栽培と牛の導入を勧められた。早速、田村は、旧藩主・伊達邦成に進言した。
この時、もしクラークが紋鼈村に立ち寄っていなかったら、もし田村が旧藩主に伝えていなかったら、日本の製糖は今日とは違った形になっていたかもしれないと考えると、なかなか感慨深いものがある。
こうして伊達では、札幌官園(現在の農業試験場のような組織)や札幌農学校と協力して、ビートの試作を進めたのである。
さらに明治13年、政府は紋鼈村に官営紋鼈製糖工場を設置した。この時の製糖機械はフランスから購入しており、その現物が、今も道南製糖所の前庭に置かれている。
ついに製糖が始まる

このようにして明治政府の肝入りで、北海道において本格的に製糖が開始された。ただし、当初から順調に生産されたわけではなかった。
目標は1日で450kgの砂糖を生産することだったのにもかかわらず、実際に初年度に生産されたのは20tだった。なんとわずか5日分以下という有様である。
その原因はいくつもある。いわば、困難だらけの製糖開始だったのだ。まず、そもそもビートの栽培面積が少なく原料不足だった。しかも単位あたりの収量が低かった。
また、製糖技術も未熟だった。機械を導入すればよいというものではないのである。さらに、ビートを畑から工場まで運搬する方法が確立されていなかった。馬車、馬そりを活用し、道路や橋も整備しなければならなかったのである。
ビート生産にかける情熱が燃える

それでも人々の努力は続く。北海道に入植してきた人たちは、何とかして生き延びていかなければならなかったのだ。
ビートは地中深くに根を張る作物であるため、畑を深く耕さなければならない。それまで人力で行っていた農作業から、馬でプラウ(家畜が牽引して土を掘り起こす洋式の農具)によって耕す農法に移行しつつあった。これによって農作業の効率は劇的に良くなった。
たちまち伊達は、全国に先駆けてプラウの先進地域となった。初めはアメリカから輸入していたプラウであったが、明治9年には国産化に成功し、やがて農機具の全国的産地にまでなっていく。
また、ビート生産には多くの肥料が必要である。当初は無肥料で生産していたが、有機質肥料や草木灰などが使われるようになり、収量も糖度も向上していった。
その後、現在に至るまで製糖業にもさまざまな変遷があった。フランスからやってきた製糖機械も、台湾にて使われた後に、再び伊達に戻って来たという歴史を持つ。それでも、官営製糖工場設置から150年近く経った今も、伊達で砂糖が作られているという事実には感動を覚える。クラークの提言は、今もなお、北海道の大地に根づいているのである。
ケーキの材料が揃ってきた
このように砂糖をめぐる歴史には、なかなか興味深い点が多い。先人たちの甘みを求める奮闘の結果、私たちはふんだんに砂糖を手に入れられるようになった。砂糖の摂りすぎを気にするようになるなど、いったい当時の誰が想像したことだろうか。
ケーキを作るにあたって、砂糖抜きにすることは考えられない。もちろん、砂糖や製糖の歴史など知らなくても、ケーキを作るのに支障は全くない。
それでも、と私は思うのだ。クラークが、田村さんが、どんな思いで北海道にビートの種を蒔いたのか。その熱き心を知るにつけ「しっかり根づいてますよ。今でもちゃんと砂糖が作られてますよ。これからケーキ焼きますよー」とお伝えしたくなるのだ。
さあ、だんだんとこの連載も大団円に近づいてきた。卵、小麦粉、バター、砂糖、ラム、生クリームをめぐる旅をしてきて、いよいよ最後のいちごに向かっていこう。
いちごのショートケーキができるまで
〜生産者をめぐる旅〜
文・写真 横松心平
ケーキを焼いているとき、ふと思ったのだ。
「この材料はたいてい北海道で揃うのでは?」
身近なところで、
小麦粉や卵や乳製品が生産されていることに、
なんだかワクワクしてきたのだった。



























横松 心平
1972年東京都生まれ。札幌市在住。北海道大学入学後、北海道大学ヒグマ研究グループの一員になる。北海道大学大学院農学研究科修士課程修了。同博士課程中退後、農業団体や福祉施設の職員を経てライターに。農業、環境、子育て、ジェンダー、文学に関心があります。現在6冊目の著書の刊行準備中。
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